マンジケルトの戦い

概要
セルジューク朝がビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になりはじめ、十字軍を呼ぶ遠因になる。
場所
39.14°N 42.54°E · トルコ・ムシュ県マラズギルト
関わった人(2)
アルプ・アルスラーンAD1029年頃–AD1072年 · セルジューク側 · 総指揮アレクシオス1世コムネノスAD1057年–AD1118年8月15日 · 10年後に帝位を本文
11世紀の初め、ビザンツ帝国は久しぶりの絶頂にあった。バシレイオス2世はブルガリアを滅ぼし、東ではアルメニアの諸侯を従えて、帝国の国境をドナウ川からコーカサスまで押し広げた。しかし1025年にこの皇帝が世を去ると、帝位は短い治世の皇帝たちのあいだを転々とした。都の官僚たちは軍人が力を持つことを嫌って軍の予算を削り、各地の屯田の兵は減り、軍の中心は外国から雇った傭兵に移っていった。
同じころ、東から新しい力が来ていた。中央アジアから西へ移ってきたテュルク系の遊牧民、セルジューク家の一族である。トゥグリル・ベグはイランを押さえ、1055年にバグダードに入って、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その甥のアルプ・アルスラーンは1064年にアルメニアの古都アニを落とす。セルジューク朝の支配の下には、決まった土地を持たず、略奪を求めて動き回るテュルクメンの集団が大勢いた。彼らは国境を越えてアナトリアの東部へ入り込み、町や村を荒らすようになった。

1068年、軍人出身のロマノス・ディオゲネスが皇后エウドキアと結婚して皇帝になった。ロマノス4世は東の国境を立て直すため、自ら軍を率いて遠征を重ねた。1071年春、彼はアルメニアの要塞を取り戻すべく大軍を率いて都を出た。兵の数は数万とされ、ビザンツの兵のほかに、ノルマン人やフランク人、ペチェネグ人やウズ人などの傭兵が多く含まれていた。
アルプ・アルスラーンはこのとき、むしろシリアでエジプトのファーティマ朝と戦うことを考えており、ビザンツとの休戦も申し出ていた。しかしビザンツ軍が東へ来ると知ると、軍を返して北へ向かった。ロマノスは軍を二つに分け、一部をアフラトの要塞へ送り、自らはヴァン湖の北のマンジケルト(いまのトルコのマラズギルト)を取り戻した。アフラトへ向かった部隊は、ノルマン人の傭兵隊長らを含め、そのまま本隊に戻ってこなかった。理由ははっきりしない。

1071年8月26日、両軍はマンジケルトの近くの平原で向き合った。セルジュークの騎馬の弓兵は、正面からぶつからず、退いては矢を射かけ、ビザンツ軍を誘い出した。日が傾くと、ロマノスは深追いを避けて陣へ戻るよう命じた。その動きが、軍の後ろの側では退却と受け取られた。後衛を指揮していたのは、ロマノスの即位で帝位を逃したドゥーカス家のアンドロニコスである。彼は皇帝が討たれたという噂を流し、自分の部隊を戦場から引き揚げたと、その場にいた歴史家ミカエル・アタレイアテスは書いている。取り残された皇帝の周りの部隊は囲まれ、ロマノスは傷を負って捕らえられた。
捕らえられた皇帝がスルタンの前に引き出されたときの問答が伝わっている。私があなたの捕虜だったらどうするか、とスルタンが問うと、ロマノスは、殺すか、都の通りを引き回すだろうと答えた。スルタンは、私の罰はもっと重い、あなたを許して自由にする、と言ったという。逸話の細部は語り手によって違うが、アルプ・アルスラーンが皇帝を丁重に扱い、1週間ほどで解放したことは確かである。身代金と毎年の貢ぎ物、国境のいくつかの町の引き渡しが条件とされた。スルタンの目的はアナトリアを征服することではなく、東の国境を安定させることにあったとみられている。

本当の打撃は、戦場の外から来た。ロマノスが捕らえられたと聞くと、都ではドゥーカス家が先帝の子ミカエル7世を皇帝に立てた。解放されたロマノスは帝位を取り戻そうとして敗れ、命の保証と引き換えに降伏したが、1072年に目を潰され、その傷がもとで死んだ。新しい政府はスルタンとの約束を守らず、帝国はその後10年にわたる内戦と反乱に沈んだ。対立する将軍たちはテュルクの兵を傭兵として雇い、自ら彼らをアナトリアの奥へ招き入れた。
国境の守りが崩れたアナトリアに、テュルクメンの集団が次々に流れ込んだ。アナトリアの高原は、帝国の兵の多くを生み、税を納めてきた土地だった。1070年代の終わりには、セルジュークの一族のスライマーンが小アジアの西部にまで進み、ニカイアを都として、のちのルーム・セルジューク朝の土台を築いた。同じ1071年には、イタリア南部に残っていた帝国最後の拠点バーリがノルマン人に落ちている。
1081年、内戦を勝ち抜いた将軍アレクシオス・コムネノスが帝位に就いた。アレクシオス1世コムネノスは傾いた帝国を立て直しながら、アナトリアを取り戻すための兵を求め、西の教皇に使いを送った。その求めが1095年の十字軍の呼びかけへとつながり、十字軍の時代が始まる。アレクシオスの娘アンナ・コムネナは後に父の伝記を書き、この時代の帝国の苦境を描いた。

トルコでは、マンジケルトの戦いはアナトリアがトルコ人の故郷になる扉を開いた勝利として記憶され、毎年8月26日に記念の行事が行われている。一方で、戦いそのものでのビザンツ軍の損害は、従来考えられていたほど大きくなかったとする研究もある。帝国を傾けたのは一日の敗北より、その後の10年の内側の崩れだった。