ジュンガルの滅亡
概要
清が最後の遊牧帝国を消した。住民の多くが殺されるか疫病で死に、2000年続いた草原と農耕の力関係がここで終わる。
場所
43.90°N 81.30°E · 中国・新疆/カザフスタン(ジュンガルの本拠)
本文
17世紀、モンゴル高原の西、いまの新疆の北部からカザフ草原にかけて、オイラトと呼ばれる西モンゴルの人々が強い国を作った。その中心となった部族の名をとって、ジュンガルと呼ばれる。羊や馬を飼って移動しながら暮らす遊牧の国で、騎馬の軍は強く、天山山脈の南のオアシスの町々も支配した。
同じころ、東では満洲人の清が明に代わって中国を治めていた(清の中国支配)。清もまた、モンゴルの諸部族を味方につけて大きくなった国だった。モンゴルとチベットをどちらが押さえるかで、二つの国はぶつかった。ジュンガルの王ガルダンは東モンゴルに攻め込み、北京から数百キロのところまで迫ったが、康熙帝がみずから軍を率いて迎え撃ち、1696年に大敗させた。ガルダンは翌年に死んだ。その後もジュンガルはチベットに兵を送るなどして清と争い続け、戦いと和睦をくり返すこと70年ほどに及んだ。

その間、ジュンガルは新しい力も持っていた。ロシアの捕虜になっていたスウェーデンの軍人などの手を借りて、大砲を作っていたのである。ロシアとは国境を接しながら交易もした。清とロシアの両方を相手にしながら、草原で独立を保っていた。
均衡が崩れたのは、1745年に君主ガルダン・ツェリンが死んでからだった。後継ぎをめぐって一族が争い、殺し合いが続いた。争いに敗れた有力者の一人アムルサナは、1754年、清に降って助けを求めた。乾隆帝はこれを好機と見た。1755年、清の大軍が西へ進み、ほとんど戦わずにジュンガルの中心地イリを押さえた。

ところが、アムルサナは清がジュンガルを分割して治めようとしていることに不満を持ち、ほどなく清に背いた。各地のジュンガルの人々もこれに続き、清の駐屯軍が殺された。乾隆帝は激しく怒った。ふたたび大軍を送り、命令はこれまでにない厳しさだった。降伏した者も許すな、若く強い男は殺せ、という趣旨の命令が出されている。
1756年から1758年にかけて、清の軍は草原を掃討した。そこへ天然痘が流行した。遊牧の人々は天然痘への免疫を持たない者が多く、病は一気に広がった。19世紀の清の学者、魏源は、ジュンガルの人々のうち、天然痘で死んだ者が四割、ロシアやカザフに逃れた者が二割、清の軍に殺された者が三割だったと書いている。数字をそのまま信じることはできないが、数十万いたとされる人々の大半が、数年のうちに消えたことは確かである。アムルサナはロシア領へ逃れ、1757年にそこで天然痘で死んだ。

この出来事を、ジェノサイド(集団殺害)と呼ぶ研究者もいる。乾隆帝は、ジュンガルという集団そのものを消すつもりで命令を出していた、という見方である。一方で、死者の多くは疫病と飢えによるもので、清の戦争の目的は国の制圧だった、とする見方もある。
乾隆帝はこの勝利を誇った。宮廷のヨーロッパ人宣教師に戦いの場面を描かせ、その下絵をはるばるパリへ送って銅版画に仕立てさせている。1759年には天山の南のオアシスの町々も平定し、これらの土地はまとめて「新疆」、新しい領土と呼ばれるようになった(乾隆帝の治世)。

空になった北の草原には、清の兵士とその家族、天山の南からのウイグル人の農民、漢人や回族の移住者が送り込まれた。1771年には、かつてヴォルガ川の流域に移っていたオイラト系のトルグートの人々が、ロシアの支配を嫌って長い旅の末にイリへ戻ってきた。いまの新疆の人々の住み分けは、この時代に形づくられた部分が大きい。
この出来事にはもう一つの意味がある。古くは匈奴から、突厥、ウイグル可汗国、そしてモンゴル帝国まで、草原の騎馬の民は二千年にわたって、南の農耕の国にとって最大の脅威であり続けた。ジュンガルは、その最後の大きな遊牧の国だった。同じころ、ロシアも東へ広がり、清とロシアはすでに国境を定めていた(ネルチンスク条約)。二つの大きな国に挟まれ、大砲と補給の力で押され、草原の民が独自の国を作る余地はなくなった。