白藤江の戦い(元寇撃退)

概要
川底に杭を沈め、引き潮で元の艦隊を座礁させた。大越はモンゴルを三度退けている。
場所
20.92°N 106.75°E · ベトナム北部
関わった人(1)
陳興道AD1228年頃–AD1300年 · 大越側 · 総指揮本文
13世紀、ユーラシアの大半を飲み込んだモンゴルは、東南アジアにも手を伸ばした。いまのベトナム北部にあった大越は、陳朝のもとで国を治めていた。モンゴルは、1258年、1285年、1287年から88年にかけての三度、大越に攻め込んでいる。日本への二度の侵攻(元寇)と、ほぼ同じ時代である。
最初の侵攻は、南宋を背後から攻める道を探す中で行われた。モンゴル軍は都の昇龍(いまのハノイ)を一時占領したが、暑さと抵抗に苦しんで、まもなく引き揚げた。1271年に国号を元と改めたフビライ・ハンは、南宋を滅ぼしたのち、大越に対して国王自らの入朝などを求め、大越はこれを拒み続けた。

1285年、クビライの子トガンが率いる大軍が北から攻め込み、南のチャンパに向かっていた別の軍も北上して、大越を挟み撃ちにした。陳朝の皇族の中には、元に降る者も出た。このとき大越の軍を率いたのが、皇族の陳興道(陳国峻)である。陳興道は、兵たちに向けて「檄将士文」を書き、元に屈すれば辱めを受けると説いて奮い立たせた。この檄文は、いまもベトナムで名文として読み継がれている。
大越の戦い方は、正面から決戦を挑むのではなく、都を捨てて退き、村々の食糧を隠して敵に渡さない、というものだった。元軍は都を占領しても、食べるものに困り、熱帯の暑さと疫病に苦しんだ。疲れたところを大越の軍が反撃し、元軍は大きな損害を出して北へ退いた。

元はあきらめなかった。1287年の暮れ、トガンは再び大軍を率いて陸から攻め込み、海からは軍船と、大量の兵糧を積んだ輸送船団が向かった。大越はまたも都を捨てて退いた。そして翌1288年の初め、将軍の陳慶余が、北部の沿岸の雲屯の付近で元の輸送船団を襲い、兵糧の多くを奪い、あるいは海に沈めた。食糧を断たれた元軍は、都を占領していても長くは持たず、撤退を決めた。
陳興道が待ち構えたのは、元の水軍が海へ帰るために通る白藤江だった。紅河の三角州の北東、海に注ぐこの川は、潮の満ち引きが大きい。陳興道は、先端をとがらせて鉄をかぶせたとされる太い杭を、川底に何列も打ち込ませた。満ち潮のときには水面の下に隠れて見えない。

旧暦3月8日(1288年4月)、元の水軍が白藤江に入ってきた。大越の小船が戦いを挑んでは逃げ、元の船を杭の並ぶあたりへ誘い込んだ。やがて潮が引き始めると、杭が水面に現れ、大きな元の船は次々にそれに突き刺さり、身動きがとれなくなった。そこへ、両岸と川上から大越の軍が襲いかかった。元の船の多くが焼かれ、あるいは奪われ、水軍の将の烏馬児(オマル)らが捕らえられた。陸路で退いたトガンの軍も、追撃を受けながら、かろうじて国境を越えた。
この杭の戦法は、350年前の938年、呉権が南漢の水軍を破った戦い(白藤江の戦い)で使われたものと同じだった。同じ川で、同じ手が、二度にわたって中国の側からの侵攻を退けたことになる。白藤江の一帯では、近年の発掘で、川底に打ち込まれた木の杭の列が見つかっている。
勝った大越は、戦いの後、すぐに元に使者を送り、朝貢を申し出た。形の上では元に従い、実際には独立を保つ。捕らえた元の将兵の多くは送り返された。クビライは4度目の侵攻を計画したが、1294年に世を去り、計画は実行されなかった。
大きな相手とは戦って退けたうえで、形式では頭を下げる。この使い分けは、その後も大越と中国の王朝の関係の型になった。陳興道は、のちに聖人として祀られ、ベトナムで最も敬われる英雄の一人になっている。ハノイなどの町には、彼の名を冠した大通りがある。