できごと

キョセ・ダグの戦い

Battle of Köse Dağ
AD1243年
重要度 3
キョセ・ダグの戦いに関わる図版:Bataille de Közä Dagh (1243)
Bataille de Közä Dagh (1243) Wikimedia Commons Unknown. Catalonia. · Public domain

概要

モンゴル軍がルーム・セルジュークを破った。アナトリアの中央権力が消え、小さな君侯国が並ぶ。その一つがオスマンになる。

場所

キョセ・ダグ位置は特定されていない(誤差 ±km)
40.00°N 38.90°E · トルコ・スィヴァス県

本文

11世紀の後半、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国が敗れたあと、トルコ系の人々がアナトリアの高原に入り込んだ。そこに生まれたのがルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジューク朝)になる。「ルーム」はローマのことで、ローマ(ビザンツ)の土地を治めるセルジュークという意味だった。

13世紀の前半、ルーム・セルジュークは最も栄えた時期を迎えていた。都コンヤには壮麗なモスクと学院が建ち、黒海と地中海の港を押さえて、隊商の道に沿って宿駅を整えた。東西の交易がアナトリアを通り、スルタンの国庫を潤した。

ローマ教皇インノケンティウス4世の書簡を受け取るバイジュの姿が描かれているダヴィッド・オベール(英語版)によって編纂された『皇帝の年代記』の挿絵(1462年)
ローマ教皇インノケンティウス4世の書簡を受け取るバイジュの姿が描かれているダヴィッド・オベール(英語版)によって編纂された『皇帝の年代記』の挿絵(1462年)Wikimedia Commons David Aubert · Public domain

その東から、モンゴルが迫っていた。モンゴル帝国の拡大の軍は1230年代にイランを押さえ、カフカスのグルジアを従わせた。1242年に将軍バイジュの軍が国境の町エルズルムを攻め落とし、アナトリアは次の標的になった。

迎え撃つスルタンはカイホスロー2世だった。若く、統治の評判は芳しくなかったとされる。1243年、スルタンは大軍を集め、東へ向かった。トルコ系の兵に加え、グルジアの兵、フランク人の傭兵、黒海沿岸のトレビゾンド帝国の部隊なども加わっていた。数ではモンゴル軍に優っていたとされる。

ヒジュラ暦638年(西暦1240/1年)にスィヴァスで鋳造されたカイホスロー2世のディルハム銀貨。キョセ・ダグの戦いに敗れたカイホスロー2世はモンゴルに対し莫大な量の銀貨を含む貢納を強いられた。
ヒジュラ暦638年(西暦1240/1年)にスィヴァスで鋳造されたカイホスロー2世のディルハム銀貨。キョセ・ダグの戦いに敗れたカイホスロー2世はモンゴルに対し莫大な量の銀貨を含む貢納を強いられた。Wikimedia Commons Public domain

両軍は、アナトリア東部のスィヴァスとエルズィンジャンのあいだ、キョセ・ダグ(「禿げ山」)と呼ばれる山の近くで向き合った。

戦いは、一日でほぼ決まった。ルーム・セルジュークの前衛が攻めかかると、モンゴル軍は退いてみせ、追ってきた前衛を待ち伏せで包み込んで討ち取った。草原の騎馬軍が得意とする、偽りの退却だった。前衛が崩れたのを見て、スルタンは陣を捨てて逃げた。残された大軍は、ほとんど戦わないまま散った。

モンゴル軍は奥へ進み、スィヴァスは降伏して許されたが、抵抗したカイセリは攻め落とされ、住民の多くが殺された。コンヤの宮廷は和を求め、毎年の貢納を約束した。南東のキリキアのアルメニア王国も、トレビゾンド帝国も、モンゴルに従うことを選んだ。

この一戦で、アナトリアの中央権力が消える。ルーム・セルジュークは、のちにイランに建ったモンゴルのイル・ハン国の属国になり、スルタンの位はモンゴルの意向で据えられたり廃されたりした。敗れたカイホスロー2世は1246年に亡くなり、幼い息子たちが三人並んでスルタンに立てられた。誰が実権を握るかは、モンゴルの宮廷へ出向いて決めてもらうほかなかった。ルーム・セルジュークは貢納を払いながら、60年ほど形だけ残り、14世紀の初めに消えた。

その隙間に、トルコ系の小さな君侯国が並ぶ。ベイリクと呼ばれる。モンゴルの支配は高原の東と中央が中心で、西の辺境にまでは目が届かなかった。そこへ、モンゴルに押されて東から移ってきた遊牧民の集団や、戦士の群れが流れ込んだ。彼らはビザンツとの境に住みつき、境の向こうの村や町を襲って領土を広げていった。カラマン、ゲルミヤン、アイドゥン、サルハンといった君侯国が、高原の西と南に生まれた。

その中で、最も西北の端、ビザンツの古都ニカイアやブルサを望む境にあった小さな一つが、オスマンの家になる。1300年ごろ、ビテュニアに現れたオスマンの集団は、1302年にビザンツの軍を破り、名を上げた(オスマン帝国の始まり)。その子の代にブルサを取り、やがてバルカン半島へ渡る。

モンゴルの敗北がなければ、オスマンの国が生まれる隙間はなかったかもしれない。アナトリアの東半分を押さえていたモンゴルの力が14世紀に衰えると、西の辺境から伸びたオスマンが、ほかのベイリクを一つずつ併せていった。

この敗戦の翌年の1244年、コンヤでは、のちに大詩人となるルーミーが、放浪の修行者シャムスと出会っている。政治の中心が崩れていくなかで、コンヤはイスラームの神秘主義の中心として、別の輝きを放つことになる。

同じ時代のできごと

親鸞『教行信証』AD1224年頃フランシスコ会則の認可AD1223年11月29日スノッリ『ヘイムスクリングラ』AD1230年頃『諸国地名辞典』AD1228年御成敗式目AD1232年(貞永元年)モンゴルの站赤AD1234年マリ帝国の成立AD1235年ラズィーヤの即位AD1236年
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