キョセ・ダグの戦い

概要
モンゴル軍がルーム・セルジュークを破った。アナトリアの中央権力が消え、小さな君侯国が並ぶ。その一つがオスマンになる。
場所
40.00°N 38.90°E · トルコ・スィヴァス県
本文
11世紀の後半、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国が敗れたあと、トルコ系の人々がアナトリアの高原に入り込んだ。そこに生まれたのがルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジューク朝)になる。「ルーム」はローマのことで、ローマ(ビザンツ)の土地を治めるセルジュークという意味だった。
13世紀の前半、ルーム・セルジュークは最も栄えた時期を迎えていた。都コンヤには壮麗なモスクと学院が建ち、黒海と地中海の港を押さえて、隊商の道に沿って宿駅を整えた。東西の交易がアナトリアを通り、スルタンの国庫を潤した。

その東から、モンゴルが迫っていた。モンゴル帝国の拡大の軍は1230年代にイランを押さえ、カフカスのグルジアを従わせた。1242年に将軍バイジュの軍が国境の町エルズルムを攻め落とし、アナトリアは次の標的になった。
迎え撃つスルタンはカイホスロー2世だった。若く、統治の評判は芳しくなかったとされる。1243年、スルタンは大軍を集め、東へ向かった。トルコ系の兵に加え、グルジアの兵、フランク人の傭兵、黒海沿岸のトレビゾンド帝国の部隊なども加わっていた。数ではモンゴル軍に優っていたとされる。

両軍は、アナトリア東部のスィヴァスとエルズィンジャンのあいだ、キョセ・ダグ(「禿げ山」)と呼ばれる山の近くで向き合った。
戦いは、一日でほぼ決まった。ルーム・セルジュークの前衛が攻めかかると、モンゴル軍は退いてみせ、追ってきた前衛を待ち伏せで包み込んで討ち取った。草原の騎馬軍が得意とする、偽りの退却だった。前衛が崩れたのを見て、スルタンは陣を捨てて逃げた。残された大軍は、ほとんど戦わないまま散った。
モンゴル軍は奥へ進み、スィヴァスは降伏して許されたが、抵抗したカイセリは攻め落とされ、住民の多くが殺された。コンヤの宮廷は和を求め、毎年の貢納を約束した。南東のキリキアのアルメニア王国も、トレビゾンド帝国も、モンゴルに従うことを選んだ。
この一戦で、アナトリアの中央権力が消える。ルーム・セルジュークは、のちにイランに建ったモンゴルのイル・ハン国の属国になり、スルタンの位はモンゴルの意向で据えられたり廃されたりした。敗れたカイホスロー2世は1246年に亡くなり、幼い息子たちが三人並んでスルタンに立てられた。誰が実権を握るかは、モンゴルの宮廷へ出向いて決めてもらうほかなかった。ルーム・セルジュークは貢納を払いながら、60年ほど形だけ残り、14世紀の初めに消えた。
その隙間に、トルコ系の小さな君侯国が並ぶ。ベイリクと呼ばれる。モンゴルの支配は高原の東と中央が中心で、西の辺境にまでは目が届かなかった。そこへ、モンゴルに押されて東から移ってきた遊牧民の集団や、戦士の群れが流れ込んだ。彼らはビザンツとの境に住みつき、境の向こうの村や町を襲って領土を広げていった。カラマン、ゲルミヤン、アイドゥン、サルハンといった君侯国が、高原の西と南に生まれた。
その中で、最も西北の端、ビザンツの古都ニカイアやブルサを望む境にあった小さな一つが、オスマンの家になる。1300年ごろ、ビテュニアに現れたオスマンの集団は、1302年にビザンツの軍を破り、名を上げた(オスマン帝国の始まり)。その子の代にブルサを取り、やがてバルカン半島へ渡る。
モンゴルの敗北がなければ、オスマンの国が生まれる隙間はなかったかもしれない。アナトリアの東半分を押さえていたモンゴルの力が14世紀に衰えると、西の辺境から伸びたオスマンが、ほかのベイリクを一つずつ併せていった。
この敗戦の翌年の1244年、コンヤでは、のちに大詩人となるルーミーが、放浪の修行者シャムスと出会っている。政治の中心が崩れていくなかで、コンヤはイスラームの神秘主義の中心として、別の輝きを放つことになる。