オルホン碑文
概要
テュルクの言葉で書かれた最古の碑文。唐の絹と甘い言葉に乗るな、と自分たちの文字で刻んである。
場所
47.56°N 102.83°E · モンゴル・ウブルハンガイ県(突厥碑文の地)
関わった人(1)
毘伽可汗AD683年–AD734年 · 建立本文
モンゴル高原の中央、オルホン川の流れる草原に、高さ3メートルを超える石碑が立っている。732年に建てられたキュル・テギンの碑と、735年に建てられたその兄・毘伽可汗の碑である。刻まれているのは、突厥文字と呼ばれる文字で書かれた、突厥の人々自身の言葉だった。テュルク系の言葉で書かれた、まとまった記録として最も古い。
突厥は、6世紀の半ばにモンゴル高原に興った遊牧民の国である(突厥可汗国の成立)。たちまち東は満洲から西は中央アジアまでを支配し、中国の王朝にも絹を貢がせた。だがやがて東西に分かれ、東の突厥は、630年、唐の唐の太宗の軍に敗れて滅んだ。突厥の人々は唐に従い、その首長たちは唐の官職を与えられて、唐の皇帝のために戦った。

682年、突厥の一族のクトルグが、わずかな仲間とともに唐に背いて兵を挙げ、国を立て直した。助言者となったのは、唐で学んだ経験を持つ老臣トニュククである。第二の突厥の国はその後勢力を広げ、716年、クトルグの子ビルゲが可汗の位に就いた。この即位を武力で支えたのが、弟のキュル・テギンだった。
731年、キュル・テギンが亡くなった。翌年、ビルゲ可汗は弟のために石碑を建てた。734年にはビルゲ可汗自身が毒を盛られて亡くなり、翌年その碑も建てられる。碑文を書いたのは、二人の甥にあたるヨルルグ・テギンという人物である。碑の一つの面には、唐の玄宗が贈った漢文の文章も刻まれている。

碑文は、ビルゲ可汗が自分の言葉で語りかける形で書かれている。上に青い天が、下に褐色の大地が生じたとき、その間に人の子が生まれた、という書き出しで始まり、祖先の可汗たちが国を築いたこと、そしてその国がなぜ滅びたのかが語られる。
突厥が唐に屈したのは、可汗たちが愚かになり、兄弟が争い、民が唐の甘い言葉に乗ったからだ、と碑文は言う。唐の民の言葉は甘く、その絹は柔らかい。甘い言葉と柔らかい絹で遠くの民を引き寄せ、近くに住まわせたうえで、悪い知恵をめぐらせる。それに欺かれた突厥の民の多くが死んだ。南の土地へ行けば死ぬ。ウテュケンの山(突厥の聖地とされた山地)に留まれば、国を永遠に保つことができる、と。

唐に従っていた50年は、碑文の中で、民が貴い子を奴隷に、清らかな娘を下女にした時代として描かれる。ビルゲ可汗は、自分が可汗になったとき、民は飢えて痩せ、着るものも無かったと語り、自分が昼も眠らず夜も座らずに戦い、民を養い、国を取り戻したと誇る。碑文は可汗の功績を述べるだけでなく、自分たちの民に向けて、なぜ国を失ったかを忘れるな、と説いている。唐の支配を経験した者が、唐の文字ではなく、自分たちの文字で、その教訓を刻んだのである。
突厥文字は、およそ38の字からなり、右から左へ書く。角ばった形が北欧の古い文字ルーンに似ているため、ヨーロッパでは「突厥ルーン文字」と呼ばれてきた。どのようにして生まれたのかははっきりしないが、ソグド文字など、西方から伝わった文字の影響が考えられている。
突厥の国は、ビルゲ可汗の死から10年ほどで、同じテュルク系のウイグルに滅ぼされた(ウイグル可汗国)。碑は草原に立ったまま、1000年以上忘れられた。

19世紀の末、1889年にロシアの調査隊がオルホン川のほとりで碑を見つけた。漢文の面は読めたが、もう一方の文字は誰にも読めなかった。1893年、デンマークの言語学者ヴィルヘルム・トムセンが解読に成功する。トムセンが最初に読み当てた語は、「天」を意味するテングリだったと伝えられる。続いて「テュルク」の語が読み取られ、この碑がテュルクの言葉で書かれていることが確かめられた。
オルホン碑文は、いまのトルコやカザフスタン、ウズベキスタンなど、テュルク系の言葉を話す国々で、自分たちの言葉と歴史の始まりを示す記録として大切にされている。中国の史書には、唐の側から見た突厥の姿が書かれている。この碑は、同じ時代を、草原の側から語った数少ない声である。