白登山の戦い

概要
漢の高祖が7日間包囲された。以後60年、漢は皇女と絹を贈って和平を買う側に回る。
場所
40.12°N 113.38°E · 中国・山西省大同市近郊
関わった人(1)
冒頓単于?–BC174年 · 匈奴側 · 総指揮本文
BC202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝の位に就き、漢の成立を成し遂げた。だが、内側の戦いに勝ったばかりの漢の北には、匈奴の統一を果たした冒頓単于の遊牧国家が、すでに大きな力となって控えていた。秦が築いた長城の守りは、秦の崩壊とその後の内戦のあいだに崩れていた。
BC201年、北の国境の要地、馬邑を守っていた韓王信が匈奴に囲まれ、降伏した。韓王信は漢の建国に功のあった諸侯の一人で、劉邦から北の守りを任されていた。韓王信は匈奴と組んで南へ攻め下り、太原の辺りにまで迫った。劉邦は自ら討伐に出ることを決めた。

BC200年の冬、劉邦は30万を超えるとされる大軍を率いて北へ向かった。その多くは歩兵である。この年の冬は寒さが厳しく、雪が降り、凍傷で指を失った兵が10人に2、3人いたと『史記』は記している。初めの戦いで漢軍は韓王信の軍を破り、勢いに乗って北へ追った。
冒頓は、精鋭の兵と肥えた馬を隠し、年寄りや弱々しい兵、痩せた家畜だけを漢の偵察に見せた。劉邦が送った使者たちは十組あまり、皆そろって、匈奴は弱っている、攻めるべきだと報告した。ただ一人、劉敬という家臣だけが違うことを言った。両国が戦うときは、自分の強さを見せつけるのが当然だ。それなのに弱い兵しか見せないのは、伏兵を置いて誘い込もうとしているからに違いない、と。劉邦は、口先で軍の士気をくじくなと怒り、劉敬を捕らえて牢に入れ、進軍を続けた。
劉邦は本隊の歩兵が追いつくのを待たず、先に平城(いまの山西省大同の辺り)まで進んだ。そこへ冒頓の騎兵が一斉に現れた。劉邦は平城の東の白登山に追い上げられ、取り囲まれた。『史記』は、匈奴の騎兵は40万で、西は白い馬、東は青みがかった馬、北は黒い馬、南は赤い馬と、方角ごとに毛色をそろえていたと書いている。数には誇張があるとみられるが、草原の帝国の騎兵の力を、漢の人々がどう受け止めたかがうかがえる。包囲は7日間続き、漢の兵は食糧も尽きかけた。
劉邦がどうやって囲みを脱したのかは、はっきりしない。『史記』は、謀臣の陳平が「奇計」を用い、ひそかに使者を送って単于の妃(閼氏)に贈り物をしたと書く。妃は冒頓に、二人の君主が互いを苦しめるべきではない、漢の土地を得ても単于が住むことはできない、と説いたという。また、冒頓と約束していた韓王信の部下たちが期日になっても現れず、冒頓が漢と内通しているのではないかと疑ったとも書かれている。陳平の計略の中身は秘密とされ、世に伝わらなかったと司馬遷自身が記しており、美女を差し出すと持ちかけて妃の嫉妬をあおったという話は、後の注釈者が推し量ったものである。冒頓は囲みの一角を開いた。霧の中、漢の兵は弩に矢をつがえて外へ向けたまま、ゆっくりと囲みを抜け出し、本隊と合流した。
都へ戻る途中、劉邦は牢の劉敬を許し、あなたの言葉を聞かなかったから平城で囲まれた、と詫びて、領地と爵位を与えた。そして、匈奴とどう付き合うべきかを劉敬に問うた。劉敬の答えが、和親の策である。皇帝の娘を単于に嫁がせ、毎年たくさんの贈り物をすれば、冒頓は漢の婿となり、その子は漢の皇帝の孫になる。孫が祖父と戦うことはないだろう、と。
劉邦は自分の娘を送ろうとしたが、皇后の呂后が泣いて反対したため、一族の娘を皇女として嫁がせた。漢は毎年、絹や酒、米などの食料を匈奴に贈り、両国は兄弟の約束を結んで、長城を境とした。形は対等の和平だが、実際には漢が貢ぎ物を納めて攻撃を思いとどまってもらうものだった。それでも匈奴の略奪がやんだわけではなく、和親は何度も結び直された。
劉邦の後、文帝と景帝の時代(文景の治)にも、漢は和親を続けて国力を蓄えた。若い学者の賈誼は、天子が夷狄に貢ぎ物を贈るのは、頭が下にあり足が上にあるようなものだと嘆いたが、すぐに戦う力はなかった。この策はおよそ60年あまり続いた。
関係が変わるのは、漢の武帝の時代である。BC133年、漢は馬邑に単于をおびき寄せて伏兵で討とうとして失敗し、これをきっかけに両国は全面的な戦争に入った。衛青の河南奪回や霍去病の河西遠征によって、漢は草原へ攻め込む側に回る。一方で和親という形は消えず、BC33年の王昭君の降嫁のように、皇帝の後宮の女性が単于に嫁ぐことはその後もあった。統一したばかりの中国の帝国が、北の草原の国に贈り物で和平を求める。その最初の形が、白登山の7日間から生まれたのである。