匈奴の統一
概要
冒頓単于が諸部をまとめ、草原に最初の大きな国ができた。中国の統一とほぼ同時期になる。
場所
47.00°N 103.00°E · モンゴル・中国内モンゴル(匈奴から突厥までの本拠)
関わった人(1)
冒頓単于?–BC174年 · 当人本文
モンゴル高原とその南の草原には、古くから馬と羊を飼って移動する人々が暮らしていた。BC4世紀ごろから、中国の北の国々の記録に「匈奴」の名が現れるようになる。彼らは騎馬と弓に長け、時に中国の北辺を襲ったが、いくつもの部族に分かれ、東には東胡、西には月氏という強い隣人を抱えていた。
BC221年に秦の中国統一を果たした始皇帝は、将軍の蒙恬に大軍を与えて北へ送り、黄河が大きく北へ湾曲する内側のオルドスの草原から匈奴を追い払った。そして戦国時代の諸国が築いていた長城をつなぎ合わせ、北の守りとした。このころ匈奴を率いていたのは、頭曼という単于(君主)である。

司馬遷の『史記』によれば、頭曼には冒頓という長子がいたが、寵愛する妃が別の男子を産むと、その子を跡継ぎにしたいと考えた。頭曼は冒頓を人質として西の月氏に送り、そのうえで月氏を攻めた。月氏が怒って人質を殺すことを狙ったのである。だが冒頓は月氏の良馬を盗んで逃げ帰った。頭曼はその勇気を認め、1万騎を与えた。
冒頓は、射ると音を立てる鏑矢を作り、部下たちに命じた。自分が鏑矢を射たところへ、皆も射よ。射ない者は斬る、と。まず狩りで獣を射させた。次に自分の愛馬に向けて鏑矢を放ち、ためらって射なかった者を斬った。続いて愛妃に向けて放ち、恐れて射なかった者をまた斬った。やがて父の良馬に向けて放つと、皆が射た。BC209年、父に従って狩りに出た冒頓は、父に向けて鏑矢を放った。部下たちは一斉に射て、頭曼は死んだ。冒頓は継母と弟、従わない重臣たちを殺し、自ら単于の位に就いた。この話は劇的にすぎ、後に脚色された部分もあるとみる人もいるが、『史記』が伝える冒頓の即位はこのようなものだった。
即位したばかりの若い単于を、東の東胡は侮った。まず頭曼の残した千里を走る名馬を求めてきた。重臣たちは渡すなと言ったが、冒頓は隣国と馬一頭を惜しむことはないと言って渡した。次に単于の妃の一人を求めてきた。これも渡した。三度目に、両国のあいだにある、人の住まない千里ほどの荒れ地を求めてきた。重臣の中には、あんな捨てた土地なら渡してもよいと言う者がいた。冒頓は激怒し、土地は国の根本である、どうして与えられようかと言って、渡してよいと言った者を斬り、すぐさま全軍で東胡を襲って滅ぼした。
冒頓はさらに西へ向かって月氏を打ち破り、南ではオルドスの諸部族を従えて、蒙恬に奪われた土地を取り戻した。北の諸部族も服属させた。始皇帝が死んで秦が崩れ、中国の内側が陳勝・呉広の乱に始まる反乱と、劉邦と項羽の争いに明け暮れていた時期である。北の守りは手薄になっていた。『史記』は、冒頓の下で弓を引く兵が30万あまりいたと記す。

冒頓は、広い草原を治めるための仕組みも整えた。単于の下に左と右の賢王を置き、東と西の土地をそれぞれ任せた。その下に24人の長がそれぞれ一万騎ほどを率い、さらにその下は千、百、十という単位で人と馬がまとめられた。毎年決まった時期に、各部族の長が単于のもとに集まって祭りを行い、人と家畜の数を数えた。それまで部族ごとにばらばらだった草原の民が、一人の君主のもとで動く国家になったのである。匈奴はこうして、記録に残る最初の大きな遊牧国家となった。
南の中国にとって、これは新しい脅威だった。部族ごとの散発的な略奪なら、城と兵で防げばよい。だが統一された遊牧国家は、数十万の騎兵を一度に動かすこともできれば、和平の交渉の相手にもなる。BC202年に中国を統一した漢の劉邦は、2年後に自ら北へ出陣し、白登山の戦いで冒頓の軍に囲まれた。以後、漢は皇女と絹を贈って和平を保つ道をとる。劉邦の死後、冒頓は未亡人となった呂太后に、自分の妻にならないかという無礼な手紙を送った。呂太后は怒って兵を出そうとしたが、重臣にいさめられ、へりくだった返事を書いて済ませたと伝えられる。

BC176年に冒頓が漢に送った手紙には、月氏を滅ぼし、楼蘭や烏孫など西の26の国を従えたと書かれている。草原の帝国の力は、タリム盆地のオアシスの国々にまで及んだ。冒頓はBC174年に世を去った。
匈奴と漢の関係が逆転するのは、およそ70年後、漢の武帝が反撃に転じてからである。漢は西の月氏と手を結ぼうと張騫の西域派遣を送り、衛青や霍去病の軍が草原の奥深くへ攻め込んだ。匈奴はその後も長く漢と争い、紀元48年の匈奴の南北分裂で南北に分かれた。4世紀にヨーロッパに現れるフン人を匈奴の子孫とする説もあるが、確かな証拠はなく、議論が続いている。いずれにせよ、草原にまとまった力が生まれ、それと中国の王朝がどう付き合うかという問題は、冒頓のときに始まり、その後2000年にわたって中国の歴史の大きな主題であり続けた。