バトゥの西征
概要
モンゴル軍が凍った川を道にして冬に進み、ルーシの諸公国を次々に落とした。ハンガリーとポーランドまで達し、大ハーンの死で引き返す。
場所
50.45°N 30.52°E · ウクライナ
本文
1235年、モンゴル高原で開かれた大集会(クリルタイ)は、西への大遠征を決めた。チンギス・ハンの長男ジョチの家に与えられた西の土地を、実際に取りに行くための戦いだった。総大将はジョチの子バトゥ。チンギスの代から戦ってきた老将スブタイが実質の指揮をとり、モンケやグユクといった次の世代の王族がそろって加わった。帝国の総力を挙げた遠征で、兵の数は諸説あるが十数万とされる(モンゴル帝国の拡大)。
1236年、まずヴォルガ中流のブルガールを滅ぼし、草原の遊牧民キプチャクを西へ追い散らした。その先にあったのが、ルーシの諸公国だった。キエフ・ルーシの改宗以来の公たちの国は、このころ十数の公国に分かれて互いに争い、一つにまとまって戦う仕組みを持っていなかった。実はルーシの公たちは、すでに一度モンゴル軍と戦っている。1223年、スブタイらの率いる偵察の別動隊を追ったルーシとキプチャクの連合軍が、アゾフ海に近いカルカ川で大敗した。モンゴル軍はそのまま東へ去り、ルーシの側では、あれは何者だったのかと年代記が首をかしげたまま、14年が過ぎていた。

ヨーロッパの軍は、冬に戦わない。道が泥になり、川が渡れず、馬の飼葉が無い。森と沼の多いルーシの地では、なおさらだった。モンゴルは、あえて冬に来た。川が凍れば、それがまっすぐな道になる。森を切り開かずに、凍った川の上を騎兵の大軍が進める。草原で育った馬は、雪を蹄で掘って下の枯れ草を食べた。
1237年12月、最初に包囲されたのがリャザンだった。投石機で城壁を壊し、数日で落とした。年代記は、公の一族も住民も殺されたと書く。1238年2月には北東の中心ウラジーミルが落ち、大公の家族は聖堂に立てこもったまま焼かれた。大公ユーリー2世は兵を集めていたシチ川の陣で、3月に襲われて戦死している。小さな町コゼリスクは7週間持ちこたえ、モンゴル側から「悪い町」と呼ばれたと伝わる。

北の商業都市ノヴゴロドは、手前100kmほどのところで難を逃れた。春が近づき、雪どけで道が沼に変わり始めていたためとされる(ルーシの成立)。モンゴル軍は南の草原へ退いて休み、2年ほどかけて残る土地を押さえていった。
1240年の秋、軍は南のキエフに向かった。キエフはかつてのルーシの都で、ヨーロッパでも有数の大きな町だった。12月、城壁が破られ、最後に人びとが逃げ込んだ十分の一教会は、屋根の上にまで人が登った重みに耐えかねて崩れたと年代記は伝える。6年後、モンゴルの大ハーンのもとへ向かう途中にここを通った教皇の使節プラノ・カルピニは、野に無数の頭骨と骨が散らばり、町には200軒ほどの家しか残っていなかったと書いている。
1241年、軍は二手に分かれた。北の別動隊はポーランドに入り、4月9日、レグニツァでシレジア公ヘンリク2世の軍を破った。公は討ち取られ、その首が槍に掲げられたという。わずか2日後の4月11日、南の本隊はハンガリーのモヒで国王ベーラ4世の軍を包囲して打ち砕いた(モヒの戦い)。ベーラは逃れ、モンゴルの一隊はそれを追ってアドリア海の岸まで達している。
1242年、軍は急に東へ引き返した。前年の12月に大ハーンのオゴデイが死んでいた。次の大ハーンを選ぶ争いに、王族たちは加わらなければならない。これが撤退の理由として長く語られてきた。近年は、木の年輪の分析から1242年のハンガリーが異常に雨の多い年で、平原が沼になって馬が養えなかったという説も出されている。理由は一つではなかったかもしれない。
ヨーロッパの西は助かった。ルーシは助からなかった。バトゥはヴォルガ下流に都サライを置き、そこからキプチャク汗国がルーシの諸公を支配した。公は位につくたびにハーンのもとへ出向いて任命状を受け、貢納を差し出す。その取り立てを任されたモスクワの公が、のちに力を蓄えていく。ロシア史で「タタールのくびき」と呼ばれるこの時代は、15世紀の終わりまで、およそ240年続いた。