アッティラの死
概要
ゲルマンの娘イルディコとの婚礼の夜、酒に酔って鼻血で窒息した。翌朝、花嫁が泣いていた。フン人は顔を切って血で悼み、金銀鉄の三重の棺に入れ、埋めた者を殺した。翌年、ネダオで従属民が反乱し、帝国は消えた。ゲルマンの伝説では妻に殺されたことになった。
場所
46.25°N 20.15°E · ハンガリー
関わった人(1)
アッティラ?–AD453年 · 死んだ本文
5世紀の半ば、フン人の王アッティラは、いまのハンガリーの平原を本拠に、黒海の北からライン川まで広がる遊牧の帝国を率いていた。フン人が東の草原から現れてゴート人を押し出したのは375年ごろのことで(フン人の西進とゲルマンの移動)、それから70年あまりで、彼らはヨーロッパ最強の勢力になっていた。アッティラは兄のブレダとともに王位を継ぎ、445年ごろ兄が死に、一人の王となった。兄はアッティラに殺されたと伝えられる。東ローマ帝国からは毎年、莫大な金を貢がせた。
451年、アッティラはガリアに攻め込んだが、西ローマの将軍アエティウスと西ゴート人の連合軍に食い止められた。翌452年にはイタリアへ入り、北の都市アクィレイアを壊した。この時、北イタリアの人々が逃げ込んだ潟の島々から、のちのヴェネツィアが生まれた、とヴェネツィア共和国は自分たちの始まりを語る。ローマ教皇レオ1世が使節としてアッティラに会い、彼は軍を引いた。教皇の説得が効いたと教会は伝えるが、軍の中の疫病と食糧の不足が本当の理由だったと考えられている。

453年、アッティラは本拠の木造の宮殿で、新しい妻を迎えた。名はイルディコといい、美しい娘だったと伝えられる。名前の響きからゲルマン系の娘と考えられているが、名前のほかには何も分からない。王にはすでに多くの妻がいた。
婚礼の夜、アッティラは宴で大いに飲み、寝床に入った。翌朝、遅くまで王が起きてこないので、従者たちが戸を破って入ると、王は血の中で死んでいて、花嫁がヴェールをかぶって泣いていた。6世紀のゴート人の歴史家ヨルダネスは、アッティラが会った同時代のローマの外交官プリスコスの記録をもとに、王は仰向けに寝ていて、いつものように鼻から血が出たが、酔いのために流れた血が喉に入り、息が詰まって死んだ、と書いている。戦場で敵を震え上がらせた王は、こうして宴の後に死んだ。

フン人は自分たちのやり方で王を悼んだ。男たちは髪を切り、頬に刀で傷をつけた。最も強い戦士は、女の涙ではなく男の血で悼まれるべきだ、とされたからだという。選ばれた騎手たちが、遺体を安置した絹の天幕の周りを馬で回りながら歌った。その歌の中身もヨルダネスが伝えている。父ムンズクの子、最も勇敢な民の王、二つのローマ帝国を恐れさせ、貢を取った王は、敵の傷によらず、身内の裏切りによらず、民が無事なうちに、痛みもなく死んだ、という。
遺体は金と銀と鉄の三重の棺に納められ、夜のうちに埋められた。金と銀は二つの帝国から取り立てた富を、鉄は戦いでの勝利を表した。墓を掘った者たちは、墓の場所が知られないよう殺された。墓はいまも見つかっていない。ティサ川の流れを一時せき止めて川底に埋めた、という話もあるが、これは近代になって広まった伝説である。

アッティラの死は、帝国の終わりだった。息子たちは帝国を自分たちの間で分けようとし、従えられていた民を家畜のように分け合おうとした。それに怒ったゲルマン系のゲピド人の王アルダリクが立ち、東ゴート人などもそれに加わった。454年、パンノニアのネダオ川のほとりで戦いが起き、アッティラの長男エラクが討ち死にした。フン人の帝国は、王の死からわずか1年あまりでばらばらになり、残った人々は東の草原へ退いていった。
アッティラの死には、早くから別の話もあった。6世紀の東ローマの年代記作者マルケリヌス・コメスは、アッティラは夜、女の手と刃で刺された、と書いている。この、妻に殺されたという話は、ゲルマンの英雄伝説の中で大きく育った。北欧の詩の『エッダ』では、アッティラにあたるアトリ王は、兄弟を殺された妻グズルーンに刺し殺される。ドイツの『ニーベルンゲンの歌』では、エッツェルの名で登場する彼は、むしろ穏やかな王として描かれ、妻クリームヒルトが自分の兄弟たちへの復讐を果たす宴の場を貸す役回りになる。

アッティラは、ローマの側から見れば帝国を荒らした野蛮人の王で、中世には「神の鞭」とまで呼ばれた。だがハンガリーでは、フン人を自分たちの遠い祖先と見る伝承があり、アッティラはいまも男の子の名前として使われている。鼻血で窒息した王の死は、その後の千年の間に、さまざまな民族の物語の中で姿を変えて生き続けることになった。