人物

耶律大石

Yelü Dashi
AD1087年 – AD1143年(享年56・推定)
西遼重要度 4

概要

遼の太祖の8代の孫。進士。金に遼が滅ぼされる直前、200騎で西へ逃げた。モンゴル高原、ウイグル、バラサグン。「グルカン」。カトワーンでサンジャルを破り、中央アジアを取った。「カラ・キタイ」。中国風の年号と官制。プレスター・ジョンの元。

関わったできごと(1)

カトワーンの戦いAD1141年9月 · 勝った

本文

耶律大石は、滅びゆく遼(契丹)から西へ逃れ、中央アジアに新しい帝国を築いた人物である。その国を中国の史書は西遼と呼び、イスラーム世界の史書は「黒い契丹」を意味するカラ・キタイと呼んだ。字は重徳。遼を建てた太祖耶律阿保機(契丹(遼)の建国)から数えて八代目の子孫にあたる。

1087年ごろに生まれた。遼は、北の遊牧民である契丹人が、農耕の漢人を含む広い領域を治めた国で、契丹人は狩猟と牧畜の暮らしを守りながら、漢人には中国式の役所と科挙で対した。大石は契丹の皇族でありながら漢文の学問を修め、1115年に科挙に合格して進士となった。契丹人で進士になった者はごく少ない。翰林院に入り、契丹語で翰林を意味する「林牙」の名で呼ばれた。契丹と漢、二つの言葉と文化に通じていたことが、のちに異郷で国を建てる力になる。

彼が進士になったまさにその年、東の満洲で女真人の完顔阿骨打が金を建てた(金の建国)。女真の騎兵は遼の軍を次々に破り、遼の皇帝天祚帝は都を捨てて西の山中へ逃げた。1122年、燕京(いまの北京)に残された大臣たちは、大石らが中心になって皇族の耶律淳を皇帝に立てた。だが淳は数か月で病死し、その妃が政治を執った。この混乱を見た宋は、金と結んで燕京を奪おうと軍を送ってきたが、大石は二度にわたってこれを撃退した。ところがその年の暮れ、燕京は金の手に落ちた。

大石は金に捕らえられ、天祚帝の居場所へ金軍を案内させられたが、隙を見て逃げ出し、天祚帝のもとへ合流した。天祚帝は、勝手に別の皇帝を立てた大石を責めた。大石は、陛下が国を捨てて逃げたから民のために立てたのだ、と言い返したと『遼史』は伝える。1124年、天祚帝はなおも金と戦うと言い張った。大石は無理だと判断し、わずか200騎ほどを連れて夜のうちに陣を去った。翌年、天祚帝は金に捕らえられ、遼は滅んだ。

大石が向かったのは、モンゴル高原の西にあった遼の辺境の城、可敦城である。そこで周辺の七つの州と十八の部族の長を集め、遼を再興する志を説いて、1万あまりの兵を得た。数年をかけて力を蓄えたのち、1130年ごろ、さらに西へ向かった。途中、天山の東に住むウイグルの王に手紙を送り、かつて遼とウイグルの間にあった友好を思い起こさせて、通行を許された。

1130年代の初め、大石は今日のカザフスタンとの国境に近いエミルの地で、グルカンの称号を名乗って即位した。グルカンは「全体の王」「普遍の汗」を意味するとされる。同時に中国風の天祐皇帝という尊号と延慶という年号を立て、契丹と中国の両方の君主の形をとった。まもなく、東カラハン朝の君主から遊牧部族の圧迫に対して救援を求められ、天山の北のバラサグンに入り、ここを都に定めた。東の金を討とうと大軍を送ったこともあったが、遠すぎて果たせず、以後は西に力を注いだ。

1137年、フェルガナのホジェンドで西カラハン朝の軍を破った。1141年、サマルカンドの北のカトワーンの草原で、西カラハン朝を助けに来たセルジューク朝のスルタン、サンジャルの大軍を打ち破った(カトワーンの戦い)。サマルカンドとブハラを含むマーワラーアンナフルが西遼の支配下に入り、ホラズムも貢納を約束した。東は天山のウイグルから、西はアム川の手前まで、遊牧民と都市の住民、仏教徒とイスラーム教徒とネストリウス派のキリスト教徒が入り混じる広い領域が、契丹の皇帝の下に置かれた。

大石の統治は緩やかだった。服属した国々の君主はそのまま残し、税は一戸につき銀貨一枚ほどを納めさせ、宗教には口を出さなかった。家臣に大きな領地を与えて自立させることも避けたと伝えられる。

1143年、大石は死んだ。60歳に満たなかった。皇后の蕭塔不煙が幼い息子に代わって政治を執り、のちに娘の普速完、孫の直魯古と続いた。西遼はおよそ80年続いたが、1211年、チンギス・ハンに追われて逃げ込んできたナイマン部の王子クチュルクに帝位を奪われ、1218年、チンギス・ハンの将軍ジェベに滅ぼされた。

カトワーンの戦いの知らせは、遠くヨーロッパまで届いた。十字軍国家の司教がローマにもたらした話では、東方に司祭ヨハネという名のキリスト教徒の王がいて、ペルシアの王を打ち破ったという。この「プレスター・ジョン」の伝説は何百年もヨーロッパ人を東方へ駆り立てたが、その元になったのは大石の勝利だったと考えられている。大石がキリスト教徒だった形跡はない。

契丹の名は、中央アジアから西では中国そのものを指す言葉になった。ロシア語ではいまも中国を「キタイ」と呼び、英語の古い呼び名「キャセイ」もここから来ている。遼と、それに続く西遼が、合わせて三百年近く東西を結ぶ道の要にあったことも、その名を西へ広めた一因とされる。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1087年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →