張議潮
概要
敦煌の豪族。吐蕃の下で育ち、僧の学校で学んだ。848年に立って沙州を、瓜州、伊州、甘州を取り、851年に唐に使者を送って「帰義軍節度使」。河西を60年ぶりに唐へ。867年、長安に入って人質のように留められ、そこで死んだ。莫高窟156窟に、彼の出行の絵。
所属
唐関わったできごと(1)
張議潮の帰義軍AD848年 · 率いた本文
張議潮は799年、シルクロードのオアシス都市、敦煌(沙州)に生まれた。そのころの敦煌は、唐の町ではなかった。755年に安史の乱が起きると、唐は西の守りの兵を内地へ引き上げ、その隙に高原の王国吐蕃が、河西回廊の町々を次々に奪った。763年には都の長安まで一時占領されている(吐蕃の長安占領)。敦煌は長い籠城の末、786年ごろに吐蕃に降った。張議潮が生まれたのは、それから十数年後のことである。

張家は敦煌の有力な一族で、名門の清河張氏の流れを名乗っていた。父の張謙逸は吐蕃の支配のもとでも地元の役職に就いていたとされる。吐蕃は住民に髪型や服装を自分たちの風に改めさせ、文書には吐蕃の文字も使われた。一方で、敦煌の寺院は吐蕃の保護を受けて栄え、僧たちは漢文の経典を写し、子どもたちに読み書きを教えた。張議潮も、そうした寺の学校で学んだと考えられている。敦煌から見つかった文書の中には、吐蕃の時代にも漢詩や儒学の書が写され続けていたことを示すものが多い。唐の使者が河西を通ったとき、吐蕃のもとで暮らす人々が、年に一度、祖先を祭る日にだけ隠しておいた唐の服を着て、泣きながらまたしまいこむのを聞いた、という話が唐の側の記録に残る。
9世紀の半ば、吐蕃は内側から揺らいだ。840年代に王が殺されて王家が分裂し、各地の将軍たちが争い始めた。848年、張議潮はこの機をとらえて立ち上がった。敦煌の住民を率いて吐蕃の守将を追い出し、沙州を取り戻すと、続けて東の瓜州を押さえた。そして唐に知らせるため、いくつもの使者の一行を別々の道で長安へ送り出した。吐蕃やウイグルの勢力が道をふさいでいたため、どれか一つでも届けばよいという考えだった。

使者は長安にたどり着き、唐の朝廷は60年以上ぶりに河西からの知らせを受け取った。その後も張議潮は伊州、甘州、粛州などを次々に取り戻し、851年には兄の張議潭を長安に送って、11州の地図と戸籍を献上した。唐の宣宗はこれを喜び、沙州に「帰義軍」を置いて、張議潮をその節度使に任じた(張議潮の帰義軍)。「帰義」とは、正しい道に帰ったという意味である。861年には、河西の要の町涼州も取り戻した。
だが、唐にはもはや西の果てまで兵や金を送る力はなかった。帰義軍は唐の名のもとにありながら、実際には敦煌の人々が自分たちの力で守る、半ば独立した政権だった。東には甘州のウイグルが勢力を伸ばし、南には吐蕃の残党がいて、張議潮の晩年には周りとの争いが絶えなかった。

867年、長安にいた兄の張議潭が亡くなった。張議潮は自ら長安に入り、そのまま都にとどまった。高い位と邸宅を与えられたが、敦煌に戻ることは許されなかったとされ、事実上の人質の立場だったと見る研究者も多い。敦煌の政は甥の張淮深に託された。872年、張議潮は長安で世を去った。73歳前後だった。
彼の姿は、敦煌の莫高窟に残っている(敦煌の石窟の造営)。第156窟の壁には、張議潮が軍勢を率いて進む大きな行列の絵が描かれている。旗を掲げた騎兵、太鼓や笛を鳴らす楽隊、舞を舞う人々が長く続き、その中ほどに馬に乗った張議潮がいる。向かいの壁には、夫人の宋氏が侍女や楽人を従えて車で進む行列が描かれている。この窟は、張淮深が叔父の功績をたたえるために開いたものとされる。敦煌の文書の中からは、張議潮が吐蕃やウイグルと戦う姿を語る語り物の台本も見つかっており、彼の物語が町の人々の前で語られていたことが分かる。
張議潮の死後、帰義軍は内紛に揺れた。890年には張淮深が殺され、張家の支配はやがて終わる。10世紀の初めからは曹氏が帰義軍を率い、11世紀に西夏が河西を押さえるまで、敦煌は中国の王朝の興亡の外で、190年近くにわたり自分たちの政権を保った。唐が滅びても(唐の滅亡)、敦煌では唐の年号や役所の名が使われ続けた時期がある。莫高窟に五代や宋の時代の壁画が多く残り、そこに曹氏一族の姿が大きく描かれているのは、この時代の豊かさのしるしである。20世紀の初めに莫高窟の一室から大量の古文書が見つかったとき、張議潮と帰義軍の時代の暮らしは、千年の眠りから覚めることになった。