突厥可汗国の成立
概要
モンゴル高原からカスピ海まで届く国ができた。ビザンツにもササン朝にも使者を送り、絹の道の値段を握る。
場所
47.00°N 103.00°E · モンゴル・中国内モンゴル(匈奴から突厥までの本拠)
関わった人(1)
ブミン可汗?–AD552年 · 初代可汗本文
6世紀の前半、モンゴル高原を支配していたのは、柔然と呼ばれる遊牧の国だった。その西のアルタイ山脈のふもとに、柔然に従う一つの部族がいた。中国の記録では突厥と書かれる、テュルクの人々である。彼らは鉄を鍛える技術を持ち、柔然のために鉄を作っていたと伝えられる。
部族の長ブミン可汗は力を蓄え、周りの部族を破って勢いを増した。柔然の王に、娘を妻に迎えたいと申し入れたが、柔然の王は、お前は我らの鍛冶の奴隷ではないか、と罵って断ったという。ブミンは中国の北で力を持っていた西魏と結び、西魏の皇女を妻に迎えた。そして552年、柔然を攻めて大敗させ、柔然の王は自ら命を絶った。ブミンは可汗の位に就いた。突厥可汗国の始まりである。ブミンはその年のうちに死んだが、子や弟たちが国を広げていった。

弟のイステミは西へ向かった。ペルシアのササン朝と組んで、中央アジアを支配していたエフタルを挟み撃ちにし、560年代に滅ぼした(ホスロー1世の改革)。こうして突厥の国は、東はモンゴル高原と中国の北から、西はカスピ海の近くまで広がった。草原の東西を一つの国が押さえたのは、これが初めてだった。
この国が手にしたのは、絹の道の真ん中だった。中国の北は当時、北周と北斉の二つの国に分かれて争っており、どちらも突厥を味方につけようと、毎年大量の絹を贈った。可汗の一人は、南にいる二人の子が孝行でありさえすれば、物に困ることなどない、と言ったと伝えられる。中国の二つの国を、自分に貢ぐ子にたとえたのである。

突厥は集めた絹を西へ売ろうとした。商いを担ったのは、中央アジアのソグド人だった(ソグド商人のネットワーク)。突厥の可汗は、ソグドの商人マニアクを使者としてササン朝に送り、絹を売る許しを求めた。だがササン朝の王は、自分たちが握る絹の中継の儲けを手放したくなかった。絹を買い取ったうえで目の前で焼かせ、次に送られた使者たちは毒殺されたと、ビザンツの歴史家は書いている。
そこで突厥は、ササン朝を飛び越えて、その敵であるビザンツ帝国と直接手を結ぼうとした。568年、マニアクの率いる使節団がコンスタンティノープルに着き、ビザンツの皇帝に会った。ビザンツからも答礼の使節が送られ、天山の山中にいたイステミの宮廷を訪れて、その豪華な天幕や金の玉座のことを書き残している。草原の国が、地中海世界の帝国と直接交渉したのである。

だが、広すぎる国はまとまりを保てなかった。可汗の位をめぐる一族の争いが続き、中国では隋が国を統一して、突厥の内部の対立をあおった。583年ごろ、国は東と西に分かれた。西の突厥は中央アジアを治め続け、7世紀の初めにインドへ向かう途中の玄奘も、西突厥の可汗に迎えられている(玄奘の西域行)。東の突厥は、630年に唐の太宗に敗れ、唐に従った。
50年ほど後、東の突厥の人々は唐から離れて国を立て直した。この再興した国の王族が、8世紀の前半、モンゴル高原のオルホン川のほとりに石碑を建てた(オルホン碑文)。碑には、自分たちの文字である突厥文字で、自分たちの言葉で、国の起こりと戦い、そして唐に従ったことへの戒めが刻まれた。テュルクの人々が自分たちの言葉で書いた、最も古いまとまった記録である。

再興した突厥は、744年、ウイグル可汗国に倒された。それでも、テュルクという名はその後も生き続けた。テュルク系の言葉を話す人々は、中央アジアから西へ移り、セルジューク朝やオスマン帝国を築き、いまのトルコ、ウズベキスタン、カザフスタンなどの国々につながっている。テュルクという名が、一つの国の名として歴史に初めて現れたのが、552年のこの国だった。