アッティラ
概要
東西のローマから貢納を取り立て、ガリアとイタリアを荒らした。死ぬと帝国は数年で消える。
関わったできごと(2)
カタラウヌムの戦いAD451年 · フン側 · 総指揮アッティラの死AD453年 · 死んだ本文
生まれた年は分からない。400年前後とされる。フン人は、4世紀の後半に東の草原から黒海の北へ現れ、ゴート人をはじめとするゲルマンの人々を西へ押し出した騎馬の民である(フン人の西進とゲルマンの移動)。5世紀の初めには、いまのハンガリーの平原を本拠に、周りの諸民族を従える大きな勢力になっていた。

434年頃、フンを率いていた叔父ルアが死ぬと、アッティラは兄ブレダとともに王になった。最初の仕事は、東ローマ帝国との交渉だった。ドナウ川沿いの町で、両者は馬に乗ったまま会談したと伝えられる。フンは東ローマに、毎年納める金を倍の700ポンドに引き上げさせ、逃げ込んだフン人を引き渡させ、国境の市場を開かせた。
東ローマがペルシアとの戦いに兵を回すと、フンはドナウを越えてバルカン半島の町々を次々に落とした。443年の和約で、東ローマは滞っていた分として金6000ポンドを払い、毎年の貢納は2100ポンドにまで上がった。445年頃、兄ブレダが死に、アッティラは一人の王になった。兄を殺したのだと、同時代の記録は伝えている。

449年、東ローマの使節団の一員として、歴史家プリスクスがアッティラの宮廷を訪れた。その記録の一部が残っている。そこに書かれているのは、意外な姿である。木造の宮殿で開かれた宴では、客や配下の王たちが金銀の器で食事をするなか、アッティラだけは木の皿で肉を食べ、木の杯で飲んでいた。服は質素で、剣にも靴にも飾りは無かった。道化が人々を笑わせても表情を変えず、末の息子が入ってきたときだけ、頬を撫でて優しい目を向けたという。
宮廷で、プリスクスは一人のギリシア人に出会った。商人としてフンに捕らえられ、戦で手柄を立てて自由になり、フンの妻を持って暮らしていた。彼は、ローマの重い税と、金持ちにだけ有利な裁判に比べれば、ここの暮らしのほうがましだと言った。プリスクスは反論したが、その言葉を書き残している。実はこの使節団には、東ローマの宦官が仕組んだアッティラ暗殺の企てが隠されていた。アッティラはそれを見抜いていた。

450年、西ローマの皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアが、望まない結婚を押しつけられ、アッティラに指輪を添えて助けを求める手紙を送った、という話が伝わる。アッティラはこれを求婚と受け取ったと称し、ホノリアを妻として迎えるとともに、持参金として西ローマ帝国の半分を要求した。同じ年、東ローマでは新しい皇帝が貢納を打ち切っていた。
451年、アッティラはゲルマンの諸民族を従えた大軍でガリアへ攻め込み、メスを焼き、オルレアンを囲んだ。西ローマの将軍アエティウスは、かつての宿敵である西ゴート王テオドリックと手を結んで迎え撃った。アエティウスは若いころフンのもとで人質として暮らし、アッティラをよく知る人物だった。両軍はシャンパーニュの平原でぶつかり(カタラウヌムの戦い)、テオドリックは戦死したが、アッティラは退いた。

翌452年、アッティラはイタリアへ入った。北東の大きな町アクイレイアを攻め落として破壊し、ミラノなどの町も奪った。アクイレイアから逃れた人々が干潟の島々に移り住んだことが、ヴェネツィアの始まりの一つだと伝えられている。ローマからは教皇レオ1世らが使節としてやって来て、アッティラと会った。アッティラはまもなく軍を引いた。後世、教皇の説得が奇跡を起こしたと語られたが、実際には飢饉と疫病で軍が弱っていたこと、東ローマの軍がフンの本拠を脅かしていたことが大きかったとされる。
453年、イルディコという若い女性と婚礼を挙げた。その夜、酒に酔って眠ったアッティラは、鼻から出た血でのどを詰まらせて死んだ(アッティラの死)。翌朝、花嫁がそばで泣いていたという。葬儀では、遺体を金と銀と鉄の三重の棺に納め、夜のうちに埋め、埋めた者たちを殺して墓の場所を隠したと伝わる。墓はいまも見つかっていない。

息子たちが跡を争ううち、従っていたゲルマンの諸民族が背いた。454年頃の戦いでフンは敗れ、大きな勢力はわずか数年で消えた。アッティラ一人の力でまとまっていた帝国だった。
西のキリスト教世界では、のちに「神の鞭」と呼ばれ、人々を罰するために遣わされた破壊者として語られた。ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、エッツェルという名の、むしろ寛大な王として登場する。ハンガリーでは、フン人を自分たちの祖先と結びつける伝承が生まれ、アッティラはいまも人名として使われている。ただし、ハンガリー人の祖先であるマジャール人がこの地に来たのは、400年以上後のことである(マジャール人のパンノニア定住)。