カザフの飢饉
概要
遊牧民を強制的に定住させ、家畜を集団化した結果、150万人前後が死んだ。カザフ人の人口の4割近くにあたる。長く公には語られなかった。
場所
45.00°N 60.00°E · カザフスタン・ウズベキスタン
本文
カザフの人びとは、羊、馬、ラクダ、牛を連れて、季節ごとに草原を移動して暮らしていた。冬は雪の少ない南の谷で、夏は北の草原で群れを養う。移動は、乾いた草原で家畜を生かすための知恵だった。ロシア帝国の時代から入植者が農地を広げてきてはいたが、1920年代の終わりまで、カザフ人の多くは遊牧か半遊牧の暮らしを続けていた。
ソビエト政府は、遊牧を遅れた暮らしと見なしていた。1925年にカザフ地方の党の指導者になったフィリップ・ゴロシチョーキンは、草原に革命を起こすと言った。1928年には、家畜を多く持つ富裕な家の家畜を取り上げ、その家族を追放した。翌1929年の末から、ヨシフ・スターリンのもとで全国の農業の集団化が一気に進められると、カザフでは定住化と集団化が同時に押しつけられた。

人びとは決められた場所に住まわされ、家畜は集団農場のものとされた。だが、その場所には、多くの家畜を冬越しさせるだけの草も、小屋も、飼い葉も用意されていなかった。動けなくなった群れは、まわりの草を食べつくして死んだ。取り上げられる前に自分の家畜を殺して食べたり売ったりする人も多かった。そのうえ、都市と軍のための肉と穀物の供出が割り当てられ、割当は家畜が減っても下げられなかった。1928年におよそ4000万頭いた家畜は、1933年には1割ほどに減った。
家畜は、カザフの人びとにとって食べものそのものだった。乳も肉も失った村に飢えが広がり、チフスなどの病気が追い打ちをかけた。死者は、おおよそ150万人とする推定が多く、それより多く見積もる研究もある。当時のカザフ人の4割近くにあたる。ソ連の民族の中で、人口に対する割合では最も大きな被害を受けたことになる。

生きのびるために逃げた人も多い。100万人以上が、中国の新疆、モンゴル、ウズベキスタンなど隣の共和国へ逃れたとされる。国境を越えようとする者に発砲されたこともあった。のちに戻った人もいたが、戻らなかった人も多い。
同じころ、ウクライナでも大飢饉が起きていた(ホロドモール)。どちらも集団化と強引な供出の帰結だが、カザフでは遊牧を力ずくで終わらせたことが被害を大きくした。1933年、ゴロシチョーキンは解任された。彼はのちの粛清の中で、1941年に銃殺されている。だが飢饉の責任を問われてのことではなかった。

この飢饉が、計画して民族を滅ぼそうとしたものだったのかどうかは、研究者のあいだでも意見が分かれている。遊牧民を定住させ、草原を穀物と肉の産地に作り変えるという目標のために、人びとの命が顧みられなかったことは確かである。被害が明らかになってからも、政策の手直しは遅れた。いまのカザフスタンでは、この飢饉をカザフ語で「アシャルシルク」と呼んでいる。
ソ連の時代、この飢饉は公には語られなかった。教科書に載ることも、死者を悼むこともできなかった。1980年代の終わり、言論が自由になりはじめると(ペレストロイカとグラスノスチ)、研究者たちが調査に取りかかり、村ごとの聞き取りや文書館の記録の掘り起こしが始まった。ソ連の解体で独立したのち、カザフスタンは5月31日を政治的弾圧の犠牲者を追悼する日とし、のちに飢饉の犠牲者も合わせて悼む日とした。首都アスタナには2012年に飢饉の犠牲者の記念碑が建てられた。
この飢饉の結果、カザフ人は自分の名を冠した共和国で少数派になった。その後も、スターリン時代の強制移住や、1950年代の処女地開拓で、ロシア人やウクライナ人が大勢移り住んだ。カザフ人が国の人口の過半数に戻ったのは、独立後の1990年代の終わりである。草原の暮らしが一度に断ち切られた傷は、人口の数字の上にも長く残った(物語「草原の帝国」)。