バスマチ蜂起

概要
徴用への反発から始まり、ソビエト政権への抵抗として20年近く続いた。山と砂漠を使った戦いで、最後は国境の封鎖と土地の分配で終わる。
場所
39.77°N 64.43°E · ウズベキスタン
本文
19世紀の後半、ロシア帝国は中央アジアのオアシスと草原を次々に征服した(ロシアのタシケント占領)。タシケントを中心に「トルキスタン総督府」が置かれ、ブハラとヒヴァの君主国は保護国として形だけ残された。ロシアは綿花の栽培を広げ、鉄道を敷き、ロシア人の農民を草原へ入植させた。ただ、ムスリムの住民には兵役を課さなかった。帝国の軍に忠誠を期待できないと考えたからで、その代わりに特別な税を納めさせていた。
1916年6月、第一次世界大戦で兵が足りなくなったロシア政府は、この約束を破った。中央アジアのムスリムの男たちを、前線の後方で塹壕を掘る労働者として徴用すると命じたのである。ちょうど農作業のいちばん忙しい季節で、説明もほとんどなかった。7月、フェルガナ盆地のホジェンドで抗議が暴動になり、反乱はたちまち各地へ広がった。とりわけ激しかったのは、ロシア人の入植で土地を奪われていたセミレチエ(いまのカザフスタン南東部とキルギス)の遊牧民の地域だった。入植者の村が襲われ、軍の鎮圧はそれ以上に苛烈だった。殺された人と、冬の天山山脈を越えて中国領へ逃れる途中で死んだ人を合わせると、犠牲は十数万人にのぼったとする推計もある。キルギスではこの逃避行を「ウルキュン」と呼んで記憶している。
翌1917年、ロシア革命が起きた。中央アジアのムスリムの知識人たち、とりわけ教育と社会の近代化を唱えてきたジャディードの人びと(ジャディード運動)は、これを自治の機会と考えた。11月、彼らはフェルガナのコーカンドで「トルキスタン自治政府」を宣言する。しかしタシケントを押さえたロシア人の労働者と兵士のソビエトは、ムスリムに権力を渡すつもりはなかった。1918年2月、赤軍はコーカンドを攻め落とし、町を焼き、数千人の住民を殺した。

ここから、本格的な武装抵抗が始まる。フェルガナの村々で、地方の有力者、宗教指導者、元の警備隊員、そして昔からの盗賊の頭までが、それぞれ手勢を率いて立ち上がった。ソビエトの側は彼らを「バスマチ」と呼んだ。トルコ系の言葉で「襲う者」、つまり匪賊という意味で、抵抗した側は自分たちを「信仰の戦士」や「自由の戦士」と称した。山あいの谷や砂漠を知り尽くした騎馬の部隊は、赤軍の守備隊や鉄道を襲っては村に紛れ込んだ。
1920年、赤軍はブハラを攻め落とし、アミールはアフガニスタンへ逃れた。ブハラ東部の山岳地帯では、アミールに仕えたウズベク系のイブラヒム・ベクが抵抗の中心になり、西のトルクメンの砂漠では、ヒヴァの実権を握っていたジュナイド・ハンが戦った。指導者たちは互いに張り合い、まとまることはなかった。

そこへ、意外な人物が現れた。オスマン帝国を第一次世界大戦に引き込んだ元陸軍大臣、エンヴェル・パシャである。敗戦後に祖国を追われたエンヴェルは、モスクワでソビエトに協力を申し出て、1921年の秋、ブハラへ送られた。ところが着いて間もなく抵抗の側に寝返り、「イスラーム軍総司令官」を名のって、中央アジアのトルコ系の人びとを一つにまとめようとした。しかし、よそ者の彼を地元の指導者たちは受け入れず、1922年8月、いまのタジキスタンの山中で赤軍の部隊に突撃して戦死した。
ソビエト政権は、武力だけで抵抗を抑えたのではなかった。1922年ごろから、イスラームの法廷と、宗教施設を支える寄進財産を一時的に元に戻し、市場での商売を認め、農民の不満を和らげた。抵抗の側から寝返った者には恩赦を与え、地元の人びとで作る自警の部隊に村を守らせた。1924年には、民族ごとに国境を引き直してウズベク、トルクメンなどの共和国を作り、地元の人びとを共産党と行政に取り込んでいった。支持を失ったバスマチは山と国境地帯へ追い込まれた。

1920年代の終わり、スターリンの農業集団化が始まると(ヨシフ・スターリン)、抵抗は再び燃え上がった。イブラヒム・ベクはアフガニスタンから戻って戦ったが、1931年に捕えられ、処刑された。1930年代の半ばまでに、組織だった抵抗は終わる。
この20年近くのあいだに、数十万の人びとが国境を越えてアフガニスタンや中国へ逃れたとされる。その子孫は今も、アフガニスタン北部のウズベク人やトルクメン人の社会の中に暮らしている。ソ連の時代、バスマチは反革命の匪賊として教えられた。1991年のソ連の解体のあと、中央アジアの国々では、彼らを外からの支配に抗った民族の英雄として見直す動きと、なお慎重な見方が並んでいる。