チンギス・ハン
概要
草原の諸部族をまとめ、史上最大の陸上帝国の土台を築いた。生年も墓所も分かっていない。
所属
モンゴル帝国関わったできごと(1)
モンゴル帝国の拡大1206年 · 創始本文
生年は1162年とされるが、1155年説、1167年説もあり定まっていない。モンゴル高原の東北、オノン川のほとりで、モンゴル部のキヤト氏族の長イェスゲイの子として生まれた。名はテムジン。生まれたとき手に血の塊を握っていたという話が、13世紀にまとめられた『元朝秘史』に載っている。生涯の多くはこの書に拠るが、物語としての脚色を含む史料である。

その『元朝秘史』は、モンゴルの祖先を、天の命を受けて生まれた蒼い狼と、白い牝鹿の夫婦から語り起こす。チンギスの家系は、そこから何代も下った末の一族として描かれる。草原の人々の誇りと世界観が、この書の冒頭に込められている。
9歳ほどのとき、父がタタル部の者に毒を盛られて死んだ。父に従っていた人々は離れ、母ホエルンと兄弟だけで、川の魚や草の根で食いつなぐ暮らしになったと伝わる。この頃、獲物をめぐって異母兄弟のベクテルを射殺したことも、『元朝秘史』は隠さずに書いている。対立する氏族に捕らえられ、首枷をはめられたまま逃げ出した話もある。

妻ボルテは、結婚して間もなくメルキト部に奪われた。テムジンは父の盟友だったケレイト部の王トオリル(オン・カン)と、幼い頃に義兄弟の誓いを交わしたジャムカの力を借りて取り戻す。この二人は、のちにどちらも彼の敵になる。ジャムカとは草原の覇権を争い、1203年にはオン・カンも倒した。翌年、西のナイマン部を破り、高原の主な部族はほぼ彼の下に入った。
1206年、オノン川の源で開かれた集会(クリルタイ)で、チンギス・カンの称号を受けた。草原を統一したやり方は、部族ごとの単位を解体し、十進法で編成し直すことだった。95の千人隊を作り、出身部族を混ぜて、忠誠の先を血縁から自分へ移した。千人隊の長には、身分の低い出の者も多い。苦しい時代から付き従った者を重く用い、かつて敵として自分の馬を射た者を、腕を見込んで将にした話も伝わる。

身辺を守る親衛隊(ケシク)も整えた。千人隊の長たちの息子を集めて仕えさせる仕組みで、側近を育てる学校であると同時に、各隊の長に背かせないための人質でもあった。法令(ヤサ)を定めたとも伝わるが、まとまった本文は残っておらず、内容はよく分かっていない。
征服は外へ向かった。1209年に西夏を従わせ、1211年に金へ攻め込み、1215年には金の都の中都(いまの北京)を落とした。1218年、中央アジアのホラズム朝の町オトラルで、モンゴルの送った隊商が殺され、抗議の使者まで殺される。翌年からの遠征で、ブハラ、サマルカンド、ウルゲンチ、メルヴといった大都市が次々に落ちた。

遠征の途中の1222年ごろ、ヒンドゥークシュの陣営に、中国から招いた道教の長老、長春真人こと丘処機が着いた。不老長寿の薬はあるかと尋ねたチンギスに、長老は、命を養う道はあるが不死の薬は無いと答えたと伝えられる。チンギスは率直さを喜び、道教の教団に税を免じた。同じ頃、配下のジェベとスベエデイはカスピ海を回って北へ抜け、1223年にはカルカ河畔でルーシの諸侯の軍を破っている。
征服の残酷さは記録に残る。抵抗した都市は住民ごと消され、その評判が次の都市を降伏させる手段になった。ただ、敵方の年代記が伝える死者の数には誇張が多いとされ、実数は分からない。技術を持つ職人や学者は殺さずに連れ帰り、使った。

同時に、交易路の安全を保証し、宗教には課税しなかった。文字を持たなかったモンゴル語に、ナイマン部に仕えていたウイグル人の書記を通じてウイグル文字を借り、表記を与えた。この文字は縦書きのモンゴル文字として受け継がれ、いまも中国の内モンゴルで使われている。広い領域に駅伝の仕組み(モンゴルの站赤)を整えたのは息子の代だが、その土台はここにある。帝国が広がったことで、東西の情報や物が動いた面もある。
1227年、背いた西夏を攻める陣中で死んだ。前の年の狩りで落馬し、その後に病んだと『元朝秘史』は書くが、死因ははっきりしない。遺体はモンゴルへ運ばれて葬られたが、墓の場所は秘され、いまも見つかっていない。

後継を決める話し合いでは、長男ジョチの出生が問題になった。妻ボルテがメルキトに奪われていた時期に身ごもった子ではないか、と次男チャガタイが言い立て、兄弟が殴り合いになりかけたと『元朝秘史』は伝える。チンギスは二人を収め、温厚な三男オゴデイを後継に指名した。
帝国は四人の息子とその子らに分けられ、孫のフビライ・ハンの代に中国全土を支配する元朝となる。モンゴル帝国の拡大は、ユーラシアの東の海から東欧までを一つの政治の下に置いた。西への進撃が初めて大きく止められたのは、孫の代の1260年、エジプトのマムルーク軍に敗れたアイン・ジャールートの戦いである。モンゴル国では建国の父として紙幣にも描かれる。一方、征服された側の記憶では、破壊者の名として残っている。どちらも事実の一面である。