契丹(遼)の建国
概要
遊牧民と農耕民を別々の制度で治めた。中国の北の一部を含む国が、草原の側から作られる。
場所
43.97°N 119.37°E · 中国・内モンゴル自治区バリン左旗(遼の都)
関わった人(1)
耶律阿保機AD872年–AD926年 · 当人本文
契丹は、モンゴル高原の東の端、遼河の上流のシラムレン川の流域で暮らしていた遊牧の民である。8部族の連合で、長は3年ごとに部族のあいだで選び直す習わしがあったと伝えられる。唐の時代には、唐とウイグルという二つの大きな力のあいだで、従ったり背いたりを繰り返していた。
9世紀の半ば、その二つの力がそろって崩れた。840年にキルギスのウイグル打倒で草原の覇者がいなくなり、唐は黄巣の乱で内側から壊れて、907年に唐の滅亡を迎える。華北は短命な王朝が入れ替わる五代の時代に入った。契丹の周りから、押さえつける者が消えた。

この隙に出てきたのが耶律阿保機である。迭剌部の出身で、907年ごろに契丹全体の長の位に就いた。本来なら任期が終われば退くはずだったが、退かなかった。これに反発した兄弟たちが何度も反乱を起こし、阿保機はそれを鎮めながら、選ばれる長から世襲の君主へと立場を変えていった。
916年、阿保機は中国の皇帝にならって帝位に就き、神冊という年号を立てた。2年後には草原の中に城壁を持つ都、上京臨潢府を築き始める。遊牧の首長が、年号と都と文字を持つ国家の君主になったことになる。920年には漢字をもとにした契丹大字が定められ、少し後に、ウイグル文字の表音の仕組みにならったとされる契丹小字が作られた。どちらも碑文や墓誌に残るが、いまも完全には読み解かれていない。

926年、阿保機は東の渤海の滅亡をもたらし、その帰りに亡くなった。跡を継いだ次男の耶律徳光(太宗)は、五代の後唐に背いた石敬瑭を助けて後晋を建てさせ、見返りに燕雲十六州を手に入れた。いまの北京と大同を含む、長城の南側の土地である。947年には後晋も滅ぼして開封に入り、国号を「遼」と改めた。ただし華北の各地で抵抗に遭い、徳光はほどなく北へ引き揚げる途中で死んでいる。中国全体を治めるのではなく、草原と長城の南の一部を合わせて持つ、という形がここで定まった。
この国の特徴は、二つの社会を一つの制度で無理に治めなかったことにある。遊牧民と契丹の部族は北面官が部族の慣習に従って治め、燕雲十六州などの漢人の農民は南面官が唐の流れをくむ州県と官僚の仕組みで治めた。皇帝自身も都に定住せず、季節ごとに天幕の宮廷(捺鉢)を移しながら狩りと政務を行った。科挙も行われたが、受けるのは主に漢人で、契丹人は武の道で仕えるものとされた。

南の宋とは、燕雲十六州をめぐって争った。宋の太宗は二度にわたって取り戻そうとして敗れ、1004年には遼の聖宗と母の承天太后が大軍で黄河の近くまで迫った。そこで結ばれたのが澶淵の盟である。宋が毎年銀と絹を贈る代わりに、両国は国境を守り、皇帝どうしが兄弟の礼で付き合う。以後およそ120年、二つの国のあいだで大きな戦争は起きなかった。贈り物の額は宋の財政から見れば軍事費よりはるかに安く、国境の市場で銀の多くが宋に戻ってきたとも言われる。
遼の国内では仏教が厚く信じられ、山西の応県に残る仏宮寺の木造の塔は、1056年に建てられた遼の建築である。高さは60メートルを超え、現存する木造の塔としては世界でも最古級とされる。
12世紀の初め、遼に従っていた東北の女真が背いた。1115年に金の建国を宣言した完顔阿骨打の軍は遼の都を次々に落とし、宋も女真と結んで燕雲十六州を取り戻そうとした。1125年、遼の最後の皇帝、天祚帝は捕らえられ、遼は滅んだ。宋はこのとき遼を見捨てたことで、2年後に自らが金に攻め込まれる靖康の変を招くことになる。

滅亡の直前、王族の耶律大石は一族と兵を連れて西へ逃れ、中央アジアに西遼(カラ・キタイ)を建てた。契丹の名は西方に長く残り、ロシア語でいまも中国を「キタイ」と呼ぶのはこの名に由来する。中世ヨーロッパで中国北部を指した「キャセイ」も同じ語から来ている。遊牧と農耕を別々の制度で治めるという遼のやり方は、金や元、清といった、草原や森の側から中国に入った後の王朝が、形を変えながら受け継いでいった。