崔氏政権の始まり
概要
武臣政変から26年、武人の間の殺し合いの末に、崔忠献が李義旼を殺して権力を握った。王を二人退け、四人を王位に就けた。都房、政房、三別抄。4代62年。モンゴルが来ると江華島に逃げて28年抵抗した。武臣政権は100年続いた。
場所
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)
関わった人(1)
崔忠献AD1149年–AD1219年 · 握った本文
高麗は、文の国だった。高麗の科挙で選ばれた文臣が政治を握り、武臣は低く見られた。戦場で軍を率いるのも文臣で、武臣はその下に置かれた。1170年、王の宴の席で、文臣に侮辱されてきた武臣たちの不満が爆発する。上将軍の鄭仲夫らは、王に従っていた文臣を次々に斬り殺し、王の毅宗を退けて、その弟の明宗を立てた(高麗の武臣政変)。武臣の時代の始まりである。
だが、権力を握った武臣たちは、今度は互いに殺し合った。1173年には毅宗を戻そうとする文臣の挙兵があり、退けられた毅宗は殺される。翌年には西の都の西京で、地方の長官が都の武臣に背いて挙兵した。政変の中心だった李義方は鄭仲夫の一派に殺され、1179年には、若い将軍の慶大升が鄭仲夫を殺して実権を握った。慶大升は、自分の身を守る私兵の集団を作り、都房と名付けた。慶大升が病で死ぬと、李義旼が後を継ぐ。父は塩の商人、母は寺の奴婢だったといわれ、腕っぷしの強さでのし上がった男だった。

武臣政変から26年、武人の間の殺し合いの末に、権力を握ったのが崔忠献である。1196年、きっかけは鳩だったと伝えられる。李義旼の息子が、崔忠献の弟が飼っていた鳩を奪った。怒った兄弟は、都の外の山の別荘に出かけていた李義旼を襲って殺し、その首を都の市にさらした。続いて李義旼の一族と仲間を根こそぎ討った。
崔忠献は、ただ力で奪っただけではないと示そうとした。権力を握るとすぐに、王に十か条の意見書を出し、政治の乱れを正すと訴えた。役人の数を減らし、奪われた土地を持ち主に返し、寺が政治に口を出すのを禁じる、といった中身だった。だが実際に行われたのは、崔忠献に逆らう者を取り除くことだった。
翌1197年、崔忠献は明宗を退け、その弟の神宗を立てる。のちに熙宗が崔忠献を除こうとして失敗すると、熙宗も退けた。崔忠献は生涯に、王を二人退け、四人を王位に就けた。王は崔氏の決めたことに印を押す飾りになった。弟の崔忠粋が自分の娘を太子の妃にしようとしたときは、それを止めようとして兄弟で争い、崔忠献は弟をも殺している。
この時代、下の身分の人々も立ち上がった。1198年には、崔忠献の家の奴婢だった万積が、仲間を集め、武臣も賤しい身分から王侯になったではないか、と説いて、奴婢の名簿を焼き、主人たちを殺す計画を立てた。計画は密告で漏れ、百人あまりが川に投げ込まれて殺された。武臣が文臣を倒した時代は、身分の秩序そのものが揺らいだ時代でもあった。
崔忠献は、自分の屋敷に教定都監という役所を置き、そこから国の政治を動かした。都房は数千人の私兵に膨らみ、交代で崔氏の屋敷を守った。崔忠献が1219年に死ぬと、子の崔瑀(崔怡)が跡を継ぎ、役人の人事を決める政房、文人を集めた書房を屋敷に設けた。夜に都を見回る兵として作られた部隊は、のちに三つに分かれ、三別抄と呼ばれる崔氏の精鋭の軍になった。崔氏は、崔忠献、崔瑀、崔沆、崔竩の4代62年、高麗を支配した。
1231年、モンゴルの軍が攻め込んできた。崔瑀は翌1232年、王と朝廷を引き連れて、都の開京から、漢江の河口に浮かぶ江華島へ移った。騎馬のモンゴル軍は、潮の流れの速い狭い海峡を渡れなかった。崔氏は島に新しい都を築き、そこから降伏を拒み続けた。だが、本土に残された人々は、繰り返し攻め込むモンゴルの軍に焼かれ、殺され、さらわれた。島の中の宮廷では宴が続いた、と後世の史書は批判している。仏の力で国を守ろうと、八万枚を超える版木に経典を刻む高麗版大蔵経が始められたのも、この島の都でのことだった。

1258年、崔氏の家臣だった金俊らが崔竩を殺し、崔氏の支配は終わる。翌年、高麗はモンゴルと和を結んだ。モンゴルとの戦いは、1231年から数えて28年に及んだ。その後も武臣の実力者が続いたが、1270年に最後の実力者が殺されて、武臣政権は100年で幕を閉じた。朝廷が開京へ戻ると決めたとき、三別抄はこれを拒み、南の珍島、さらに済州島へ移って1273年まで戦った。三別抄が日本に助けを求めた文書も残っている。モンゴルに屈した高麗は、その後、元寇に兵と船を出すことになる。
同じころ、日本では源頼朝が鎌倉に武士の政権を開き(鎌倉幕府の成立)、やがて執権の北条氏が将軍を飾りにして実権を握った。武臣が王を立てて実権を握る高麗の形を、日本の鎌倉と並べる見方もある。ただ、鎌倉の幕府が百五十年近く続いて武家の政治を日本に根づかせたのに対し、高麗の武臣政権は、モンゴルの圧力の中で倒れ、王の政治が戻った。その王家も、代々モンゴルの皇女を妃に迎え、元の強い干渉を受けることになる。江華島には、いまも高麗の宮殿の跡が残っている。