匈奴の南北分裂
概要
南は漢に従い、北は西へ去った。北匈奴の行方は分かっておらず、フン族との関係も証明されていない。
場所
47.00°N 103.00°E · モンゴル・中国内モンゴル(匈奴から突厥までの本拠)
本文
紀元前3世紀の末に冒頓単于がモンゴル高原の遊牧民を束ねて以来(匈奴の統一)、匈奴は漢にとって最大の脅威だった。漢の初めには、漢が毎年絹や酒、穀物を贈り、皇族の娘を単于に嫁がせて和を保った。武帝の時代になると漢は攻勢に転じ、長い戦争の末に匈奴を高原の北へ押しやった。それでも匈奴は滅びず、草原の覇者であり続けた。
匈奴の弱点は、君主の位の継ぎ方にあった。単于の位は一族の中で受け継がれたが、兄から弟へ譲るのか、父から子へ譲るのかが定まらず、代替わりのたびに争いが起きた。紀元前1世紀なかばには、五人の単于が並び立つ内乱が起き、その中から呼韓邪単于が漢に入朝して臣従し、漢の支援を受けて対立する兄の郅支単于に勝った。このとき匈奴は一度、漢に従う者と従わない者に分かれている。

紀元後1世紀の初め、漢では王莽が帝位を奪い(王莽が新を建てる)、匈奴を見下す政策をとって関係をこじらせた。王莽が倒れ、光武帝が漢を建て直した頃、匈奴は再び勢いを取り戻し、漢の北辺を荒らしていた。ところが40年代に入ると、高原は日照りと蝗の害に襲われ、草が枯れて家畜が大量に死に、人も多く飢え死にしたと記録されている。
そこへ継承の争いが重なった。時の単于は、兄弟に位を譲るという取り決めを破り、自分の子を後継ぎに立てた。これに不満を持ったのが、呼韓邪単于の孫にあたる日逐王の比である。比は南部の8つの部族を率いて独立し、48年、祖父と同じ呼韓邪単于を名乗って漢に服属を申し出た。漢の朝廷では受け入れに慎重な意見もあったが、光武帝はこれを認めた。こうして匈奴は、漢に従う南匈奴と、高原に残る北匈奴に分かれた。

南匈奴は漢の北の辺境の郡に移り住むことを許され、50年には単于の本拠を今の内モンゴルの西河郡に置いた。漢は南匈奴に毎年食糧や絹を与え、その代わりに南匈奴は北匈奴や他の遊牧民に対する国境の守りを引き受けた。漢は役人を置いて単于を見張り、内紛のたびに口を出した。
北匈奴は、南匈奴と漢、そして東から勢いを増してきた鮮卑や烏桓に挟まれて弱っていった。89年、漢の外戚の竇憲は南匈奴の兵とともに大軍を率いて北匈奴を破り、モンゴル高原の燕然山に戦勝の文を刻ませた。文を書いたのは『漢書』の著者の班固である。この刻文は長く所在が分からなかったが、2017年にモンゴルの山中の岩壁で確認されたと発表された。91年、漢軍は再び北匈奴を破り、単于は西へ逃れた。同じ頃、班固の弟の班超がタリム盆地のオアシス諸国を漢に従わせ(班超の西域経営)、北匈奴は西域での足場も失った。

北匈奴が去った高原には鮮卑が入り込み、残っていた匈奴の人々の多くは鮮卑を名乗るようになったと史書は伝える。西へ逃れた北匈奴は、2世紀なかばまで天山の北の方面で消息が伝えられたが、その後の行方は分からない。
4世紀の後半、黒海の北の草原に、騎馬の民フン人が現れてゴート人を打ち破る(フン人の西進とゲルマンの移動)。18世紀のフランスの東洋学者ド・ギーニュは、このフン人こそ西へ移った北匈奴の子孫だと唱えた。以来、この説は繰り返し議論されてきた。名前の類似に加え、4世紀初めのソグド語の手紙で匈奴を指す語がフンに近い音で書かれていること、両者に共通する大型の青銅の釜が草原に点々と見つかることなどが、つながりを示す手がかりとされる。一方で、北匈奴の最後の記録とフン人の登場までには200年以上の隔たりがあり、言葉も分かっていないため、同じ集団だったと証明されたわけではない。名前や権威の伝統が受け継がれただけで、人の集団は入れ替わっていたとみる研究者も多い。

南匈奴のほうは、その後も漢の内側で暮らし続けた。2世紀の末に後漢が乱れると、南匈奴の騎兵は群雄に雇われて各地で戦い、216年には曹操によって5つの部に分けられ、漢人の役人の監督下に置かれた。彼らは農耕を営み、漢語を話し、中国の名を持つようになる。304年、単于の血を引く劉淵が、漢の皇室の母方の子孫であることを掲げて「漢」を名乗る国を建てた。311年にはその軍が西晋の都の洛陽を落とし、華北は五胡十六国の時代に入る。
帝国の外の敵を内に入れ、国境の守りに使う。そのやり方は数世代のあいだ漢を守ったが、帝国が弱ったとき、内側に入った人々が新しい国の担い手になった。南北に分かれたことで、匈奴は北では消え、南では中国の歴史の中へ溶け込んでいったのである。