人物

冒頓単于

Modu Chanyu
? – BC174年
匈奴重要度 4

概要

父を殺して立ち、モンゴル高原を統一した。漢の高祖を包囲し、贈り物を受け取る側に回らせる。

所属

匈奴

関わったできごと(2)

匈奴の統一BC209年 · 当人白登山の戦いBC200年 · 匈奴側 · 総指揮

本文

冒頓は、紀元前3世紀の末にモンゴル高原の南部にいた遊牧民、匈奴の君主頭曼単于の太子だった。単于は匈奴の君主の称号である。生年は分からない。冒頓の生涯について知られていることの大部分は、漢の司馬遷が書いた『史記』の匈奴列伝による(『史記』の完成)。匈奴自身は文字の記録を残していないから、敵だった漢の側から見た姿になる。

匈奴支配下の地域
匈奴支配下の地域Wikimedia Commons de:User:Postmann Michael · Public domain

当時、匈奴は高原の諸勢力の一つにすぎなかった。東には東胡、西には月氏という強い遊牧民がいて、南では始皇帝が中国を統一し、将軍蒙恬に黄河の湾曲部の内側(オルドス)から匈奴を追い払わせ、長城をつなぎ合わせていた。頭曼単于は北へ退いていた。

『史記』によれば、頭曼は後に寵愛した妻が生んだ子を跡継ぎにしたくなり、冒頓を人質として月氏に送った。そのうえで月氏を攻めた。月氏は人質を殺そうとしたが、冒頓は月氏の良馬を盗んで逃げ帰った。頭曼はその勇気を認め、1万の騎兵を率いさせた。

冒頓はこの部隊を鍛え上げた。射ると音の鳴る鏑矢を作り、自分が鏑矢を射た方向に全員が射るよう命じ、射なかった者は斬ると定めた。狩りで獲物に向けて射させ、従わない者を斬った。次に、自分の愛馬に向けて鏑矢を放った。ためらって射なかった者を斬った。さらに、自分の愛する妻に向けて射た。恐れて射なかった者を、また斬った。その後、父の良馬に向けて射ると、全員が射た。部下が自分の命令に例外なく従うと見届けた冒頓は、父に従って狩りに出たとき、鏑矢を父に向けて放った。部下は皆それに従って射て、頭曼は死んだ。冒頓は継母と弟、従わない重臣を殺し、紀元前209年、単于の位についた(匈奴の統一)。中国では、秦の始皇帝が死んだ翌年で、各地で反乱が起き始めていた。

即位したばかりの冒頓を、東の東胡は侮った。まず頭曼の持っていた千里を駆ける名馬を求めてきた。臣下は国の宝だと反対したが、冒頓は、隣国と付き合うのに馬一頭を惜しむことはない、と与えた。次に、単于の妻の一人を求めてきた。臣下は怒って攻めるべきだと言ったが、冒頓はこれも与えた。最後に東胡は、両国の間にある、誰も住んでいない荒れ地を求めた。臣下の中に、どうせ捨てた土地だから与えてもよいと言う者がいた。冒頓は、土地は国の根本だ、どうして与えられようか、と怒り、与えてよいと言った者を斬って、ただちに東胡を急襲し、これを滅ぼした。この話がどこまで史実かは分からないが、司馬遷が冒頓という人物をどう見ていたかをよく表している。

冒頓はさらに西の月氏を討って追い払い、南ではオルドスの諸部族を併せて、蒙恬に奪われた土地を取り戻した。北の諸族も従え、モンゴル高原に、はじめて一つにまとまった遊牧の国家が生まれた。『史記』は、弓を引く兵が30万あまりいたと書く。単于の下に左右の賢王をはじめとする諸王と将軍を置き、東西に分けて治める仕組みは、のちの遊牧国家に受け継がれていく。

その頃、中国では劉邦が項羽を破って漢を建てていた(垓下の戦い)。北の国境で匈奴に降る者が相次ぐと、劉邦は自ら大軍を率いて討伐に向かった。紀元前200年、冬の寒さで指を失う兵が続出するなか、冒頓はわざと弱兵を見せて退き、漢軍を誘い込んだ。劉邦が先を急いで平城の近くの白登山に至ったところで、冒頓は40万ともいわれる騎兵で包囲した(白登山の戦い)。包囲は7日間続いた。劉邦は、参謀陳平の策で単于の妻に贈り物を届け、とりなしを頼んで、囲みの一角が開いたところから脱け出したと伝えられる。

白登山の戦いに関わる図版:Shanhukouvillage Datong Shanxi
白登山の戦いWikimedia Commons Chlukoe · CC0

これ以後、漢は匈奴と和親を結んだ。皇族の娘を公主として単于に嫁がせ、毎年、絹や酒、穀物を贈る。両国は兄弟の約束を結び、長城を境とした。実質は、漢が贈り物を差し出して平和を買う形である。劉邦の死後、冒頓は寡婦となった呂后に手紙を送り、互いに独り身なのだから、持っているもので無いものを補い合おうではないか、と書いた。呂后は激怒して出兵を口にしたが、臣下に、高祖でさえ白登で囲まれたことを思い出すよう諫められ、自分は年老いて髪も歯も抜けている、と丁重に断る返書を送った。

晩年の冒頓は、再び月氏を大きく破り、天山方面の楼蘭や烏孫など、西域のオアシスの国々を従えたと、漢の文帝に誇る手紙を送っている。紀元前174年に死に、子が老上単于として跡を継いだ。漢が贈り物を差し出す和親は、漢の武帝が匈奴との全面戦争に踏み切るまで、60年あまり続いた。月氏が西へ追われたことは、のちに漢が張騫の西域派遣で彼らを味方に引き入れようとするきっかけにもなった。

冒頓が作ったのは、農耕の帝国と肩を並べる、統一された遊牧の帝国だった。中国の王朝にとって、北の草原に一つの強大な相手がいるという状況は、この時から2000年近く、何度も形を変えて繰り返されることになる。

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