カタラウヌムの戦い

概要
ローマと西ゴートの連合がアッティラを止めた。西ローマ帝国の最後の大きな勝利とも言われるが、兵の多くは西ゴートなど同盟した諸族だった。
場所
48.96°N 4.36°E · フランス・シャンパーニュ地方(戦場の位置は特定されていない)
関わった人(2)
アッティラ?–AD453年 · フン側 · 総指揮アエティウスAD391年頃–AD454年9月21日 · ローマの将軍本文
5世紀の半ば、アッティラの率いるフンの王国は、ドナウ川の北のハンガリー平原を本拠に、東はカスピ海の近くから西はライン川の手前まで、多くの民族を従えていた(フン人の西進とゲルマンの移動)。東ローマ帝国は、毎年数百キロもの金を貢いで、ようやく攻撃をかわしていた。アッティラの軍は、フンの騎兵のほかに、東ゴート、ゲピド、アラン、ルギなど、従えた諸民族の兵を大量に含んでいた。
451年の春、アッティラは向きを変え、西ローマ帝国のガリアへ攻め込んだ。口実の一つとされるのが、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアの一件である。意に沿わない結婚を強いられたホノリアは、アッティラに指輪を送って助けを求めたといい、アッティラはこれを求婚と受け取って、持参金として帝国の半分を要求したと伝えられる。どこまで事実かは分からないが、アッティラが西への遠征の名目を探していたことは確かだろう。フン軍はライン川を越え、メッスを焼き、ロワール川のほとりのオルレアンを包囲した。

西ローマ帝国の軍を率いていたのはアエティウスである。若いころ、アエティウスは人質としてフンの宮廷で過ごし、その後もフンの兵を雇って帝国内の敵と戦ってきた。フンの戦い方も、その弱みも知り尽くした人物だった。アエティウスは、ガリアの南西に住みついていた西ゴートの王テオドリック1世を説いて同盟を結んだ。西ゴートは、かつてフンに追われてローマ領へ逃げ込んだ民である。フランクやブルグントなど、ガリアの諸部族も加わった。連合軍が近づくと、アッティラはオルレアンの包囲を解いて東へ退いた。
両軍がぶつかったのは、6月ごろ、シャンパーニュ地方の平原、いまのトロワやシャロンの近くとされる。カタラウヌムの野と呼ばれるが、正確な場所は分かっていない。戦いの様子を詳しく伝えるのは、およそ100年後に書かれたヨルダネスの『ゴート史』で、両軍の死者を16万5000人と記している。明らかな誇張だが、激しい戦いだったことは疑いない。西ゴート王テオドリックは乱戦の中で戦死した。日暮れまでに、フン軍は車を円陣に並べた野営地へ押し戻された。ヨルダネスによれば、アッティラは馬の鞍を積み上げさせ、敗れれば自ら火を放って死ぬ覚悟を決めたという。

ところが、連合軍はとどめを刺さなかった。テオドリックの息子トリスムンドは、本国で王位を固めるために軍を引いて帰った。アエティウスがそう勧めたとも伝えられる。フンを滅ぼしてしまえば、次は強くなりすぎた西ゴートが帝国の脅威になる、という計算があったという見方がある。アッティラは、軍の大部分を保ったままガリアから引き上げた。
翌452年、アッティラは今度はイタリアに攻め込み、アクイレイアを破壊し、ミラノなど北イタリアの町々を荒らした。この戦火を逃れて干潟に移った人々が、のちのヴェネツィアの起こりになったという伝承もある。ローマからは教皇レオ1世らが使節としてアッティラのもとへ赴き、会見の後、フン軍は引き返した。後世、これは教皇の徳の力として語られたが、実際には、イタリアで流行していた疫病と飢え、東ローマ軍によるフンの本拠への攻撃が理由だったとみられている。
453年、アッティラは新しい妻を迎えた婚礼の夜、血を吐いて窒息死した(アッティラの死)。その後、息子たちが争い、従属していた民族が反乱を起こして、フンの王国はあっけなく崩れた。勝者だったアエティウスも、454年、自分の力を恐れた皇帝ウァレンティニアヌス3世の手で殺され、その皇帝も翌年に暗殺される。455年にはヴァンダル人がローマを略奪し(ヴァンダルのローマ略奪)、476年には西ローマ帝国そのものが終わる(西ローマ帝国の滅亡)。

カタラウヌムの戦いは、後世、ヨーロッパをアジアの騎馬民族から救った決戦としてたたえられた。ただ、アエティウスの軍の大部分はゲルマン系の同盟者で、敵の陣営にも多くのゲルマン人がいた。ローマの将軍が、ゲルマン人の同盟軍をまとめて戦った、西ローマ帝国の最後の大きな会戦だった、というほうが実態に近い。