グレコ・バクトリア王国の滅亡
概要
アレクサンドロスの兵の子孫の国が、200年、アフガニスタンにあった。ギリシア語の硬貨、ギリシアの神殿、アイ・ハヌムの劇場。月氏が匈奴に追われて来て、終わった。張騫が来たとき、もうなかった。「大夏」と彼は書いた。
場所
36.75°N 66.90°E · アフガニスタン・バルフ
本文
紀元前329年、アレクサンドロス3世はいまのアフガニスタン北部のバクトリアに入り、2年あまり、土地の抵抗と戦った。この地を押さえるため、彼は各地に町を築き、ギリシア人の兵を住まわせた。紀元前323年に大王が死ぬと、故郷から遠く離れた土地に置かれた2万を超えるギリシア人が、帰りたいと反乱を起こした。後継者たちの軍はこれを打ち破り、多くを殺した。それでも、残った者たちがいた。
大王の帝国の東の大部分はセレウコス朝のものになった。紀元前3世紀の半ば、バクトリアの総督ディオドトスはセレウコス朝から離れ、自ら王を名乗った。次の王エウテュデモスの時代、紀元前208年、セレウコス朝の王アンティオコス3世(大王)が攻めてきて、都バクトラを2年にわたって囲んだ。エウテュデモスは使者を送り、我々が争えば、北の遊牧民がなだれ込み、この地はギリシアのものでなくなる、と説いたとギリシアの歴史家ポリュビオスは伝える。アンティオコスは和を結んで去った。
紀元前2世紀のはじめ、エウテュデモスの子デメトリオスはヒンドゥークシュの山を越えて、インドの北西へ攻め入った。ここに生まれたギリシア人の王たちの国は、インド・グリーク朝と呼ばれる。その一人、メナンドロス1世は、仏教の僧と問答を交わした王としてインドの経典に名を残している(ミリンダ王の問い)。紀元前170年ごろ、エウクラティデスという男がバクトリアの王位を奪い、「大王」を名乗って巨大な金貨を打たせたが、最後は息子に殺され、その息子は父の血の上を戦車で走った、とローマの歴史家ユスティヌスは書く。

この国の姿を最もよく伝えるのが、アイ・ハヌムの遺跡である。1961年、アフガニスタンの国王ザーヒル・シャーが狩りの途中、オクソス川(アムダリヤ)とコクチャ川の合流点で、ギリシア風の柱頭を見つけた。1964年からフランスの調査隊が発掘し、劇場、体育場、宮殿、神殿、噴水、書庫の跡が現れた。劇場はおよそ5000人を収めたと見積もられている。体育場の近くの石碑には、ギリシアのデルフォイの神殿の格言が刻まれていた。子どものときは礼儀正しく、若いときは自らを抑え、壮年には正しく、老いては良い助言を、死ぬときは悔いなく。クレアルコスという人が、はるばるデルフォイで写してきたという。地中海から5000キロ近く離れた土地で、人々はギリシア語を話し、ギリシアの神々を祀っていた。
この町は紀元前145年ごろ、火に包まれて捨てられた。北から来た遊牧民の仕業と考えられている。遊牧民の大移動は、はるか東で始まっていた。モンゴル高原を統一した匈奴の冒頓単于とその子の代に、甘粛のあたりにいた月氏は打ち破られ、西へ逃れた。月氏はさらに烏孫に追われて中央アジアを南へ下り、バクトリアに押し寄せた。紀元前130年ごろ、ギリシア人の王の国は消えた。最後の王ヘリオクレスについては、硬貨のほかにほとんど何も分からない。

その直後、漢の武帝の使者張騫(張騫の西域派遣)がこの地に来た。彼はこの国を「大夏」と記した。大きな君主はおらず、町ごとに小さな長がいる。兵は弱く、戦いを恐れるが、商いが上手で、都の藍市城には大きな市場がある。そして北の月氏に従っている。市場で、四川の竹の杖と布を見つけた張騫が尋ねると、身毒(インド)から買ってきたという答えが返ってきた。この報告が、漢がインドへの道を探るきっかけの一つになった。
ギリシア人の王たちは、ヒンドゥークシュの南のインド・グリーク朝で、紀元前後まで続いた。一方、バクトリアに入った月氏の五つの部族の一つから、やがてクシャーナ朝の隆盛が興る。クシャーナの王たちはギリシアの文字でバクトリアの言葉を書き、カニシカ王の硬貨には、ギリシア文字で「ボッド」と記したブッダの姿が、ギリシアや西方の神々と並んで刻まれた。ギリシアの彫刻の技は、ガンダーラの仏像(ガンダーラの仏像)に受け継がれる。アイ・ハヌムは1979年以降の戦乱のなかで盗掘され、遺跡の多くが失われた。ギリシアの王国は200年で消えたが、その文字と形は、仏教の姿を変えて東へ旅をした。