ミトリダテス1世(パルティア)
概要
アルサケス朝の6代目。メディア、メソポタミア、ペルシス、エリマイス。セレウコス朝のデメトリオス2世を捕えて娘を嫁がせた。「王の中の王」。ギリシア風の硬貨に「ギリシア人の友」。パルティアを、遊牧の部族から、帝国にした。
所属
パルティア関わったできごと(1)
パルティアのセレウキア占領BC141年 · 王本文
ミトリダテス1世は、イランの東北部から興ったパルティアの王である。ミトリダテスとは「ミトラ神の与えたもの」の意味。生まれは紀元前195年頃とされるが、確かではない。

パルティアは、紀元前3世紀の半ば、カスピ海の東南の草原にいた遊牧の部族パルニの首長アルサケスが、セレウコス朝の州パルティアを奪って建てた国である。王たちはみな始祖の名アルサケスを名乗ったため、中国の史書はこの国を「安息」と呼んだ。ミトリダテスはアルサケス4世(フリアパティオス)の子で、兄フラーテス1世のあとを継いだ。兄は自分の子ではなく、才のある弟を後継ぎに選んだと伝えられる。即位は紀元前171年頃とするのが従来の説だが、紀元前165年頃とする説もある。
即位したときのパルティアは、イラン東北の一地方の国にすぎなかった。東にはアレクサンドロス大王の遠征の後に生まれたギリシア人のバクトリア王国があり、西にはセレウコス朝があった。ミトリダテスはまず東で、バクトリアの王エウクラティデスと争い、いくつかの地方を奪ったとされる。
転機は西で訪れた。セレウコス朝は、ローマとの戦いの敗北や王位をめぐる内紛で弱っていた。ミトリダテスは紀元前148年頃にメディアを攻め、古都エクバタナ(いまのハマダーン)を取った。そこからザグロス山脈を越えてメソポタミアに入り、紀元前141年、ティグリス河畔の大都市セレウキアを手に入れた(パルティアのセレウキア占領)。バビロンの天文学者たちが粘土板に書き続けた天文日誌には、その年の夏から「アルサケス王」の名が現れる。続いてスーサを含むエリマイスや、ペルシス(ペルセポリスの地方)も従わせた。
紀元前139年頃(138年とする説もある)、セレウコス朝の王デメトリオス2世が、失った東方を取り戻そうとメソポタミアに攻め込んだ。現地のギリシア人やバビロニア人の一部は彼を迎えたが、デメトリオスはパルティア軍に敗れて捕らえられた。ミトリダテスは捕虜の王を殺さず、王にふさわしい待遇でカスピ海の南のヒュルカニアに住まわせ、娘ロドグネを嫁がせた。セレウコス朝への切り札として手元に置いたのである。デメトリオスは何度か逃げようとしたが果たせず、10年近くのちにミトリダテスの子フラーテス2世によって送り返された。
ミトリダテスは、征服したギリシア人の都市を壊さなかった。セレウキアには自治を認め、ギリシア語の銘を刻んだギリシア風の硬貨を造った。そこには「大王アルサケス、ギリシア人の友」と刻まれている。草原の部族の王が、ギリシアの都市の支配者としても振る舞おうとしたことが分かる。一方で、彼の時代から王たちはアケメネス朝の王たちの後継者としての姿も打ち出していった。「王の中の王」の称号を最初に名乗ったのを彼とする説もあるが、硬貨ではっきり確かめられるのは後のミトリダテス2世からである。
のちにパルティアの都となるクテシフォンは、セレウキアのティグリス川の対岸にあった。ギリシアの都市を目の前に置いた王の陣営が、やがて都になったと伝えられる。
ミトリダテスは晩年、東方で遊牧民の動きに備えるためヒュルカニアに戻り、紀元前132年頃、そこで死んだ。即位したときイラン東北の一王国だったパルティアは、彼の死のときには、東はイラン高原の東部から西はメソポタミアまでを治める帝国になっていた。東ではまもなく、遊牧民の圧迫でギリシア人のバクトリアも滅びる(グレコ・バクトリア王国の滅亡)。
パルティアは自分たちの記録をほとんど残さなかった。ミトリダテスの事績は、ギリシア・ローマの歴史家の断片、バビロンの天文日誌、そして硬貨からつなぎ合わせて知られている。トルクメニスタンのニサの遺跡からは、象牙の角杯(リュトン)など、初期のパルティアの王たちの富を伝える品が見つかっている。
同じ名を持つ黒海のミトリダテス6世は、ミトリダテス1世が死んだ頃に生まれ、ローマと40年以上戦って名を残した。そのためミトリダテスといえばポントスの王を思い浮かべる人が多い。だが、ローマと約300年にわたって東方で張り合う帝国を作ったのは、こちらのミトリダテスである(パルティア)。