ハザールの滅亡
概要
ユダヤ教に改宗した草原の帝国を、キエフのスヴャトスラフが攻めた。サルケル、イティル。「ハザールはブドウ園があったが、いまは一房もない」。300年、ビザンツとカリフとルーシの間に立った国が消え、草原の道が開いて、ペチェネグとクマンが来た。
場所
46.30°N 47.90°E · ロシア・ヴォルガ河口
関わった人(1)
スヴャトスラフAD943年–AD972年 · 攻めた本文
ハザールはテュルク系の遊牧民が7世紀に建てた国である。西突厥が崩れたあと、カスピ海の北の草原に勢力を広げ、最盛期にはヴォルガ川の下流からドン川、クリミア半島、北コーカサスまでを支配した。君主はカガンと呼ばれ、のちには神聖な存在として表に出ないカガンと、実際に軍と政治を動かすベクの二人が並び立つ形になったと伝えられる。
ハザールは、南から押し寄せるアラブの軍勢と1世紀近くコーカサスで戦った。730年には南コーカサスへ攻め入ってアルダビールの近くでウマイヤ朝の軍を破り、737年にはウマイヤ朝の将マルワーンがヴォルガまで攻め込んでカガンを一時屈服させている。それでもハザールは滅びず、イスラームの勢力がコーカサスを越えて北の草原へ広がるのを食い止める壁になった。ビザンツ帝国にとってハザールは頼れる同盟者で、皇帝コンスタンティノス5世はハザールの王女を妻に迎え、生まれた息子レオン4世は「ハザール人」とあだ名された。
ハザールの最も変わった点は、支配層がユダヤ教を受け入れたことである。時期ははっきりせず、8世紀の半ばとする伝えと、9世紀に入ってからとする説がある。9世紀の前半には「モーセは神の使徒」と刻んだ銀貨が造られており、改宗を裏付ける手がかりとされる。10世紀の半ば、コルドバの後ウマイヤ朝に仕えたユダヤ人の高官ハスダイ・イブン・シャプルートが、東の果てにユダヤ教徒の王国があると聞いて手紙を送り、ハザールのヨセフ王が返事を書いたとされる往復書簡が残っている。そこでは、昔の王ブランがキリスト教、イスラーム、ユダヤ教の学者を呼んで議論させ、ユダヤ教を選んだと語られる。この書簡が本物かどうかには疑いもあり、改宗が王と貴族にとどまったのか、民の間にどこまで広がったのかも分からない。ビザンツのキリスト教も、アッバース朝のイスラームも受け入れなかったのは、どちらの帝国の下にも入らないためだったと説明されることが多い。都の住民には、イスラーム教徒もキリスト教徒も、昔ながらの神々を拝む者もいた。
都イティルは、ヴォルガ川がカスピ海に注ぐ三角州にあった。アラブの地理学者によれば、川の両岸に町が分かれ、王の宮殿は中の島にあったという。ハザールの富は交易から来た。北の森からルーシの商人が毛皮や蜂蜜や奴隷を運び、南からはイスラーム世界の銀貨が流れ込む。ハザールはその通り道で十分の一の税を取った。ドン川のほとりには、830年代にビザンツの技師ペトロナスの手を借りて煉瓦の城サルケル(「白い城」)が築かれた。

北の森の東スラヴの部族の多くは、ハザールに貢ぎ物を納めていた。9世紀の後半にキエフを中心にルーシの国(キエフ・ルーシ)ができると、部族を次々にハザールの支配から引き離していく。そして10世紀の半ば、キエフ公スヴャトスラフが決定的な一撃を加えた。ルーシの年代記によれば、964年、スヴャトスラフはオカ川流域のヴャティチ族に誰に貢いでいるかと尋ね、ハザールにと答えられた。翌965年、スヴャトスラフはハザールに攻め込んでカガンの軍を破り、サルケルを奪った。サルケルはルーシの砦となり、ベーラヤ・ヴェジャ(「白い塔」)と呼ばれた。
イティルが攻め落とされた年は、965年とも968年から969年とも言われる。10世紀のアラブの地理学者イブン・ハウカルは、ルーシがイティルとカスピ海の西岸の町セメンデルを荒らし尽くし、セメンデルにはかつてブドウ園や果樹園があったが、いまはブドウ一房、干しブドウ一粒も残っていないと書いた。ハザールの人々はカスピ海の島々に逃れ、のちに戻ったとも伝えられ、東のホラズムに助けを求めて、その条件にイスラームへ改宗したという記録もある。

国としてのハザールは、これで事実上終わった。名残はクリミアなどにしばらく残り、11世紀の初めまで記録に名が見える。ハザールが消えると、草原は東から来る遊牧民の通り道になった。ペチェネグ、続いてクマン(ルーシの記録ではポロヴェツ)がキエフの南の草原に入り込み、ルーシは二百年にわたってその襲撃に悩まされた。13世紀にはモンゴルが同じ道を通ってやって来る(モンゴル帝国の拡大)。300年にわたってビザンツとイスラームの帝国とルーシの間に立っていた緩衝の国が、無くなったのである。
ハザールは、後世さまざまな想像をかき立てた。1976年、作家アーサー・ケストラーは、東ヨーロッパのユダヤ人(アシュケナージ)の祖先はハザールだと唱える本を書いて話題になった。だが遺伝学の研究の多くはこの説を支持しておらず、いまでは否定的に見られている。イティルの跡もまだ確かには見つかっていない。2000年代にロシアの考古学者がヴォルガ三角州のサモスデルカの遺跡をイティルではないかと発表したが、決め手は無い。三角州は川筋が変わりやすく、都は水の下に沈んだのかもしれない。

ハザールの名は海の名として残った。ペルシア語、アラビア語、トルコ語では、カスピ海をいまも「ハザールの海」と呼ぶ。