人物

弓裔

Gung Ye
? – AD918年
後高句麗重要度 3

概要

新羅の王子で、生まれた日が悪いと捨てられ、乳母が受け止めて片目を潰した。僧になり、盗賊に入り、後高句麗を建て、国号を摩震、泰封と変え、自分を弥勒と呼んだ。他人の心を読めると言って妻と二人の子を殺した。王建に追われて麦を食べて殺された。

関わったできごと(1)

後三国の分立AD892年 · 後高句麗

本文

弓裔の生涯は、ほとんど『三国史記』の列伝だけで伝わる。高麗の時代に、彼を倒して国を開いた王建の側の立場で書かれた記録である。その列伝によれば、彼は新羅の第47代憲安王、あるいは第48代景文王の子だった。母は宮中の身分の低い女とされる。

5月5日、母の実家で生まれた。屋根の上に白い光が虹のように立ち、赤子にはすでに歯が生えていた。日官(天文と占いの役人)が、重五の日に歯を持って生まれた子は国に害をなすと告げ、王は殺すよう命じた。使いの者が赤子を楼の上から投げ落とすと、下にいた乳母がひそかに受け止めた。そのとき指が目に入り、片目が潰れたという。乳母は子を連れて逃げ、隠れて育てた。

十余歳で素性を聞かされた弓裔は、世達寺に入って僧となり、善宗と名乗った。戒律を守らず、気の荒い僧だったと列伝は書く。ある日、托鉢の鉢に烏が何かを落としていった。見ると、牙の札に「王」の字があった。彼はそれを人に見せず、ひそかに自負したという。こうした話の多くは、後から作られた徴(しるし)とみてよい。

9世紀の末、新羅は崩れかけていた。王位をめぐる争いが続き、地方では豪族が城に拠って自立し、税が届かなくなった。889年に各地で反乱が起きると、国はもう抑えられなかった(後三国の分立)。891年、弓裔は竹州の盗賊の頭目箕萱のもとに身を寄せ、翌年には北原の梁吉に移った。兵を預けられると東の溟州(江陵)へ進み、894年には3500の兵を十四の隊に分けて率い、将軍と呼ばれるようになった。兵と苦楽を共にし、賞罰が公平だったので、人が集まったと列伝は書く。

勢いは北西へ伸びた。896年、開城の松嶽の豪族王隆が帰順した。王建の父である。弓裔は若い王建を城主に任じ、898年には松嶽に都を置いた。梁吉を破って中部を手に入れると、901年に王を名乗り、国を高句麗と呼んだ。のちの史家はこれを後高句麗と呼ぶ。新羅が滅ぼした高句麗の名を掲げて、旧高句麗の地の豪族と民をまとめるためだった。904年に国号を摩震と改め、翌年、都を鉄円(いまの江原道鉄原)に移した。911年には国号を泰封とした。南西では甄萱の後百済と争い、王建を水軍の将として送り、羅州を奪っている。

国が大きくなるにつれ、弓裔は変わった。自分を弥勒仏と称し、金の頭巾をかぶり、僧衣をまとって、白馬に乗って出歩いた。長男を青光菩薩、次男を神光菩薩と呼び、自ら経を二十余巻書いた。僧の釈聡がその経を邪説だと言うと、鉄の槌で打ち殺した。他人の心を見通す「観心法」を身につけたと称し、それを理由に臣下を次々に殺した。915年、王妃の康氏が諫めると、他の男と通じていると言い立て、焼いた鉄の杵で殺し、二人の息子も殺したという。

918年6月、洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙の四人の将が王建のもとへ行き、王を替えるよう迫った。王建はためらったが、妻に鎧を着せられて立ったと伝わる。弓裔は宮殿を逃げ出し、山中をさまよったすえ、斧壌(いまの平康)で麦の穂を盗んで食べているところを民に見つかり、殺された。王建は即位して国号を高麗とした(高麗の建国)。

列伝の弓裔は、捨てられた片目の王子が狂った暴君になる物語として、きれいにできすぎている。王建の即位を正当化するには、前の王が狂っていた方が都合がよい。一方で、記録の端々からは別の顔も見える。彼は新羅を激しく憎み、新羅を「滅ぶべき都」と呼ばせ、新羅から来た者を殺させたという。また、豪族ではなく僧や身分の低い者を重く用い、王の力を強めようとした。豪族たちが彼を見限って同じ豪族出身の王建を選んだのは、狂気のためだけでなく、その統治が彼らの利害とぶつかったからだとみる研究者もいる。

泰封の都の跡は、鉄原の平野にいまも眠っている。朝鮮戦争のあと、そこは南北を分ける非武装地帯の中に入り、城壁の跡を軍事境界線が横切っている。南北の共同調査が何度も話し合われてきたが、本格的な発掘はまだ実現していない。韓国では2000年から放送されたテレビドラマ『太祖王建』で広く知られ、弓裔はいま、最もよく知られた暴君の顔の一つになっている。

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