李舜臣
概要
亀甲船を用いて日本の水軍を破り、補給線を断った。最後の海戦で流れ弾に倒れる。
所属
朝鮮王朝関わったできごと(2)
文禄・慶長の役1592年 · 朝鮮水軍亀甲船と閑山島AD1592年8月14日(宣祖25年7月8日) · 率いた本文
1545年、朝鮮王朝の都・漢城(いまのソウル)で、両班(ヤンバン)と呼ばれる支配階層の家に生まれた。祖父が王朝の政争に巻き込まれて以来、家は振るわず、一家はやがて忠清道の牙山に移った。兄たちと同じく儒学を学んだが、20代になって武官の道を選んだ。文を重んじる朝鮮では、武官は文官より一段低く見られていた。
最初の武科の試験では、騎馬の試技で落馬して脚を折った。それでも立ち上がり、柳の木の皮で脚を縛って試技を続けたと伝えられる。合格したのは4年後、1576年、満31歳のときで、武官としては遅い出発だった。
初めの任地は北の国境で、女真の人々との小競り合いが続く土地だった。李舜臣は筋を曲げない人で、上官の不当な要求を断り、その恨みを買うことがたびたびあった。1587年には、守っていた砦が女真に襲われた責任を問われ、官職を奪われて一兵卒として従軍する処分を受けている。

転機は1591年に訪れた。幼なじみで、王朝の重臣になっていた柳成龍の推薦によって、異例の抜擢で全羅道の左水軍節度使、つまり南西の海を守る水軍の司令官に任じられた。その頃、日本では豊臣秀吉が全国を統一し、大陸へ攻め込む構えを見せていた。朝鮮の朝廷では、日本が本当に攻めてくるかどうかで意見が割れていた。李舜臣は着任するとすぐに、船を修理し、兵を鍛え、武器と食糧を蓄えた。
その備えの中で造られたのが、亀甲船(コブクソン)である(亀甲船と閑山島)。朝鮮にはもともと似た船があったとされるが、李舜臣はこれを改良した。甲板を厚い板で亀の甲羅のように覆い、上に鉄の釘を植えて、敵兵が飛び移って斬り込むのを防いだ。船首には竜の頭を付け、そこからも砲を撃った。日本の水軍は、船を寄せて乗り移り、刀で戦うのを得意とした。亀甲船は、その戦い方そのものを封じ、離れたところから砲で撃つための船だった。完成したのは、日本軍が攻めてくる直前だった。
1592年4月、日本の大軍が釜山に上陸し、朝鮮側は総崩れになった(文禄・慶長の役)。わずか20日ほどで都の漢城が落ち、王は北へ逃れた。陸で負け続けるなか、海では李舜臣の水軍が勝ち続けた。5月の玉浦の戦いで初めて日本の船団を破り、続く泗川の戦いで初めて亀甲船を使った。この戦いで李舜臣自身も肩に銃弾を受けている。7月には閑山島の沖で、日本の船団を狭い水道から広い海へおびき出し、鶴が翼を広げたような陣形で包み込んで、大打撃を与えた。

日本軍は、陸の兵を海から補給し、朝鮮の西の海を回って北へ物資を運ぶつもりだった。李舜臣の水軍がその道をふさいだため、平壌まで進んだ日本の陸軍は、補給が届かず進めなくなった。明の援軍が来たこともあり、戦争は膠着し、和平の交渉が始まった。李舜臣は全羅・慶尚・忠清の三道の水軍をまとめる統制使になった。
だが、勝ち続けた将軍は宮廷で妬まれた。1597年、日本側の者が流したとみられる情報をもとに、朝廷は日本の船団を攻めるよう命じた。罠を疑った李舜臣は出撃しなかった。これが命令に背いたとされ、彼は都に送られて拷問を受けた。死刑になるところを、重臣の嘆願で救われ、ふたたび一兵卒として従軍することになった。その道中、息子に会いに来ようとした母が亡くなったが、葬儀にも立ち会えなかった。

代わって水軍を率いた元均は、同じ年の夏、漆川梁で日本の水軍に大敗し、自らも戦死した。朝鮮の水軍は壊滅した。朝廷はあわてて李舜臣を呼び戻した。残っていた船は、わずか12隻だった。水軍をやめて陸で戦うよう勧める王に、李舜臣は、臣にはまだ12隻の船があります、と書き送ったと伝えられる。
1597年の秋、全羅道の鳴梁の海峡で、李舜臣は13隻の船で、100隻を超える日本の船団を迎え撃った。潮の流れが速く、向きが変わるこの狭い海峡で、日本の船は思うように動けず、多くが沈められた。朝鮮の水軍は一隻も失わなかったとされる。その直後、故郷にいた三男が日本兵に殺された知らせが届いた。日記には、その悲しみが書き付けられている。

1598年8月、秀吉が亡くなり、日本軍は朝鮮から引き揚げ始めた。李舜臣は明の水軍と組んで、退こうとする日本の船団を追った。11月19日(新暦では12月16日)、露梁の海で夜通し続いた戦いのさなか、李舜臣は敵の銃弾を胸に受けた。戦いはいま急だ、私の死を知らせるな、と言い残して息を引き取ったと伝えられる。満53歳だった。戦いは朝鮮と明の側の勝利に終わった。
戦争の間、李舜臣は日記を書き続けた。『乱中日記』と呼ばれるこの記録には、戦いの経過とともに、病や眠れない夜、母や子への思い、朝廷への憤りが率直に記されている。死後、忠武公という称号を贈られ、韓国では最も敬われる英雄の一人になった。ソウルの光化門の広場には、その大きな像が立っている。生涯の海戦で一度も負けなかったという言い伝えがあり、戦いの数は23回とも数えられるが、数え方には幅がある。