善徳女王の即位
概要
新羅の骨品制で聖骨の男がいなくなり、真平王の娘が王になった。朝鮮で最初の女王。瞻星台と皇龍寺の九層塔を建て、金春秋と金庾信を用い、唐の太宗に「女が王だから隣国が侮る」と言われた。647年、貴族の反乱の最中に死んだ。
場所
35.86°N 129.22°E · 大韓民国(新羅の都)
関わった人(1)
善徳女王?–AD647年 · 女王本文
7世紀のはじめ、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が争っていた。半島の南東、いまの慶州に都を置いた新羅は、三国のなかでいちばん後れて国の形を整えた国である。新羅には新羅の骨品制と呼ばれる厳しい身分の決まりがあり、王族のなかでも父母ともに王族の血を引く「聖骨」だけが王になれるとされていた。その下に、王族でも聖骨ではない「真骨」が続く。
632年、50年あまり王位にあった真平王が亡くなった。真平王には男子がなく、聖骨の男子もほかに残っていなかった。そこで王の娘の徳曼が位を継いだ。善徳王、のちに善徳女王と呼ばれる。朝鮮の歴史で最初の女王である。女性が王になれたのは、聖骨という身分が男女の別より重く見られていたからだと考えられている。

善徳女王には、先を見通す賢さを伝える話がいくつも残っている。13世紀にまとめられた『三国遺事』は、それを三つの予言としてまとめた。一つは、唐から牡丹の絵と種が届いたとき、絵に蝶が描かれていないのを見て、この花には香りが無いと言い当てた話である。『三国遺事』は、唐の皇帝が夫のいない女王をからかったのだ、という解釈まで添えている。二つ目は、冬なのに寺の池で蛙が何日も鳴いたことから、都の西の谷に百済の伏兵が潜んでいると見抜き、兵を送って500人を討たせた話。三つ目は、自分の死ぬ日を言い当て、仏教の天の一つにちなむ場所に葬るよう命じた話である。どれも後の時代にまとめられた伝承で、そのまま事実と見ることはできない。
在位中の新羅は、仏教と学問で国を固めようとしていた。634年には芬皇寺が建てられ、天文を観測したとされる瞻星台も、女王の時代に築かれたと伝わる。高さ9メートルほどの石積みの塔で、いまも慶州に立っている。唐で学んだ僧の慈蔵が643年に帰国すると、女王は彼を重んじ、その勧めで皇龍寺に九層の木の塔を建てさせた。周りの国々を従えるための祈りを込めた塔で、百済から招いた工人が建てたとされ、高さは80メートルほどあったという。この塔は1238年、モンゴルの侵入で焼け落ちた。

外からの圧力は厳しかった。642年、百済の義慈王が新羅の西の城を次々に落とし、要の大耶城も陥落した。城を守っていたのは、王族の金春秋の娘とその夫で、二人は命を落とした。金春秋は高句麗に援軍を頼みに行ったが、逆に捕らえられかけ、将軍の金庾信が兵を集めて救い出そうとしたと伝えられる。新羅は、最後の頼みとして唐に助けを求めた。
643年、唐に送られた新羅の使者に、唐の太宗は三つの案を示した。そのうちの一つは、新羅が女を王にしているから隣国に侮られるのであり、唐の皇族を一人送って王にしてやろう、というものだった。使者は答えられなかったと『三国史記』は記す。女王を戴くことは、唐から見ても、新羅の弱みの一つと受け取られていた。
この言葉は、新羅の中にも響いた。647年の正月、貴族の最高位にあった毗曇が、女の王では国を治められないとして兵を挙げた。反乱軍は都の近くの城に立てこもり、女王の側は宮殿に陣取って、10日ほどにらみ合った。夜に大きな星が宮殿のほうへ落ちると、反乱軍は女王が倒れる兆しだと沸き立った。金庾信は火をつけた凧を夜空に揚げ、落ちた星が天に戻ったと言いふらして兵の動揺を鎮めたという。反乱はやがて鎮められ、毗曇は処刑された。
善徳女王はその反乱のさなか、647年の正月8日に亡くなった。死の事情ははっきりしない。後を継いだのは、いとこにあたる真徳女王で、新羅は続けて二人の女王を戴いた。真徳女王が654年に亡くなると聖骨の王族は絶え、真骨の金春秋が武烈王として即位する。彼と金庾信の時代に、新羅は唐と結んで百済と高句麗を滅ぼし、新羅の朝鮮半島統一へ進んでいった。
新羅には、9世紀の終わりにもう一人の女王が立ち、朝鮮の歴史で女王はこの三人だけである。後の時代の儒学者たちは、女性が王になったことを批判的に書いた。善徳女王の陵とされる墓は、いまも慶州の狼山にある。