概要
朱蒙の息子温祚が、扶余から来た兄が太子になると聞いて南へ下り、漢江の南に都した。兄沸流は海辺の弥鄒忽を選んで失敗した。百済の王家は「扶余氏」を名乗り、聖王は国号を南扶余とした。高句麗と同じ祖の国。
場所
漢城(ソウル)
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
関わった人(1)
温祚?–AD28年(伝承) · 建国本文
『三国史記』百済本紀。 朱蒙が卒本扶余の王の次女を娶って二子。沸流と温祚。 朱蒙が北扶余にいたときの子、琉璃が来て太子になった。 二人は烏干、馬黎ら十臣と南へ。従う民が多かった。 漢山に登って住める土地を見た。沸流は海辺に住みたいと言った。十臣が「漢水の南は北に漢水を帯び、東に高い山、南に沃沢、西に大海。天険の地利」。 温祚は河南の慰礼城に都した。十臣が輔けたから「十済」。 沸流は弥鄒忽(仁川)。土地が湿って水が塩辛く、住めない。慰礼を見ると民が安らか。恥じて死んだ。民が慰礼に帰った。 百姓が楽しんで従ったので「百済」。 別の説。始祖は優台の子、沸流。 「世系は高句麗と同じく扶余から出たので、扶余を氏とした」。
BC18年は『三国史記』の計算。 考古学は、漢江の南の風納土城が3世紀から4世紀の都と言う。BC18年の都ではない。 百済が国になったのは3世紀の古爾王のころ、と多くの人が考える。 だが王家は「扶余氏」を名乗り続け、538年、聖王は泗沘に移って国号を「南扶余」にした。 660年に滅び、義慈王は洛陽で死んだ。 仁川には沸流の弥鄒忽の名が残る。文鶴山城。 温祚の名で、百済は自分を高句麗の弟だと言い、高句麗と500年戦った。