百済の建国(伝承)
概要
朱蒙の息子温祚が、扶余から来た兄が太子になると聞いて南へ下り、漢江の南に都した。兄沸流は海辺の弥鄒忽を選んで失敗した。百済の王家は「扶余氏」を名乗り、聖王は国号を南扶余とした。高句麗と同じ祖の国。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
関わった人(1)
温祚?–AD28年(伝承) · 建国本文
百済の始まりを最も詳しく伝えるのは、1145年に高麗の金富軾らがまとめた『三国史記』の百済本紀である。建国から千年以上のちに、高麗の朝廷が古い記録と伝えを集めて編んだ歴史書で、その冒頭に、温祚という王子の物語が置かれている。
それによれば、温祚の父は、北の扶余から逃れてきて高句麗を建てた朱蒙だった(高句麗の建国(伝承))。朱蒙は卒本扶余にたどり着き、その地の王の次女を妻に迎えて、二人の息子をもうけた。兄を沸流、弟を温祚という。ところが、朱蒙が北扶余にいたころにもうけていた息子、類利(琉璃)が父を訪ねてきて、太子に立てられた。自分たちは跡を継げない。沸流と温祚は、のちの災いを恐れて、烏干や馬黎ら十人の家臣とともに南へ下った。従ってくる民も多かった。
一行は漢山に登り、住むべき土地を見渡した。沸流は海辺に住みたいと言った。十人の家臣は諫めて言った。漢水(いまの漢江)の南の地は、北に漢水を帯び、東に高い山を控え、南に肥えた沢を望み、西は大海で隔てられている。天の与えた要害の地であり、ここに都を置くのがよい。沸流は聞かず、民を分けて海辺の弥鄒忽に移った。温祚は漢水の南の慰礼城に都を置き、十人の家臣が助けたので、国の名を「十済」とした。紀元前18年のことだと『三国史記』は記す。
弥鄒忽の地は湿っていて、水は塩辛く、安らかに暮らせなかった。沸流が慰礼城を訪ねると、都は定まり、民は落ち着いて暮らしていた。沸流は恥じ、悔やんで死んだ。沸流に従っていた民はみな慰礼城に移った。のちに、来たときに百姓が楽しんで従ったことから、国の名を「百済」に改めたという。王家は、高句麗と同じく扶余から出たとして、「扶余」を姓とした。弥鄒忽は、いまの仁川のあたりとされる。
『三国史記』は、この話に続けて別の伝えも載せている。始祖は温祚ではなく沸流で、父は朱蒙ではなく、北扶余の王の孫にあたる優台という人物だったというのである。中国の歴史書の中には、百済の始祖を仇台という名で記すものもある。百済の始まりについては、編まれた当時からすでに複数の伝えがあったことになる。
紀元前18年という年は、『三国史記』の年代の数え方によるもので、そのまま史実とは受け取られていない。いまのソウルの南東、漢江の南岸にある風納土城や夢村土城の発掘では、大規模な城壁や建物の跡が見つかっているが、その多くは3世紀から4世紀のものとされる。近くの石村洞には、高句麗の墓とよく似た石を積み上げた墓が並び、百済の支配層が北から来た人々の流れをくむという伝えを裏づけるとも考えられている。中国の史書に百済の名がはっきり現れるのは4世紀のことで、馬韓の小国の一つだった伯済が周りを従えて国にまとまったのは3世紀ごろ、とみる研究者が多い。
4世紀の後半、近肖古王のもとで百済は大きく伸び、371年には北へ攻め上って高句麗の故国原王を戦死させた。この王の時代に、倭との結びつきも深まり、のちに奈良の石上神宮に伝わる七支刀は、このころ百済から倭に贈られたものとみられている。だが高句麗との争いは続き、475年、高句麗の長寿王の大軍に都の漢城を落とされ、蓋鹵王は殺された(百済の漢城陥落)。百済は南の熊津(いまの公州)に移って立て直しをはかった。
538年、聖王は都をさらに南の泗沘(いまの扶余)に移し、国の名を「南扶余」とした。扶余の流れをくむという始祖の物語は、国が南へ追われるなかでも、王家の誇りの拠り所だったのである。聖王は倭に仏教を伝えたことでも知られる(仏教の日本伝来)。百済は温祚の物語によって、高句麗と同じ祖から出た兄弟の国であると名乗りながら、その高句麗と、のちには新羅とも、数百年にわたって戦い続けた。660年、唐と新羅の連合軍に泗沘を落とされて百済は滅び(百済の滅亡)、義慈王は唐の都に連れ去られて、まもなく死んだ。3年後、百済の復興を助けようとした倭の軍は、白村江の戦いで大敗する。多くの百済の人々が海を渡り、日本の国づくりに加わった。仁川の文鶴山には、いまも沸流の弥鄒忽の名残とされる城の跡が残っている。