薩水の戦い
概要
隋の煬帝が113万と称する軍で高句麗を攻め、30万の別動隊が平壌の手前まで来た。乙支文徳が退きながら疲れさせ、帰る軍を清川江で襲った。遼東に戻れたのは2700人と伝わる。隋はこれで傾いた。
場所
39.70°N 125.60°E · 北朝鮮・平安北道
関わった人(1)
乙支文徳高句麗の将軍本文
589年、隋は300年近く分かれていた中国を再び一つにした(隋の中国再統一)。北東の高句麗は、統一された大国と国境で向き合うことになった。598年、隋の文帝は最初の遠征を送ったが、長雨と疫病、海の嵐に阻まれて失敗した。
604年に即位した2代皇帝の煬帝は、大運河を開き(大運河の完成)、豪壮な宮殿を建て、外へ向けても大きな事業を好んだ皇帝である。高句麗が北方の突厥と通じることを警戒し、その王に入朝を求めたが、高句麗は応じなかった。611年、煬帝は高句麗の征討を命じた。
612年の正月、隋の大軍が動き出した。『隋書』は、その数を113万3800人と記す。食料や武具を運ぶ人夫は、その倍いたという。全軍が出発し終えるまでに40日かかり、隊列は1000里にわたって続いたと伝えられる。実際の兵の数は数十万だったと見る研究者が多いが、それでも空前の大軍だった。
隋軍は遼河を渡り、遼東城を囲んだ。だが、城は落ちなかった。煬帝は前線の将軍たちが自分の命令なしに動くことを禁じており、城が降伏を申し出るたびに、煬帝の許しを待つあいだに守りを固め直されてしまった。夏になっても戦況は動かなかった。
煬帝は、別の策をとった。宇文述と于仲文ら9人の将軍に30万5000の兵を分け与え、遼東城を残して鴨緑江を渡り、一気に高句麗の都、平壌を突かせることにした。兵たちは、100日分の食料と武具を背負わされた。あまりの重さに、ひそかに食料を陣の地面に埋めて捨てる者が相次いだ。鴨緑江に着くころには、早くも食料が尽きかけていた。
高句麗の将軍乙支文徳は、降伏の使者を装って隋の陣営に入った。隋の兵の飢えた様子を見届けると、引きとめられる前に陣を抜け出して帰った。それから彼は、わざと負けては退くことをくり返した。隋軍は一日に七度戦って七度勝ち、勢いに乗って平壌の手前30里まで迫った。
だが、そこで隋軍は動けなくなった。平壌の城は堅く、兵は疲れ果て、食料は無い。乙支文徳は、于仲文に一編の詩を送った。あなたの神のような策は天の理を究め、巧みな計略は地の理を窮めた。戦いに勝った功績はもう十分に高い。満足して、ここでやめてはどうか。そして、隋軍が引き揚げるなら、王を連れて煬帝のもとへ参上しようと申し出た。皮肉をこめた詩とも読める。宇文述は、偽りと知りながらも、これを口実に兵を退くしかなかった。
隋軍は四角い陣を組んで引き返した。高句麗軍は、退く隋軍に四方からつきまとって攻めた。そして、隋軍が薩水を半ばまで渡ったところで、後ろから一斉に襲いかかった。薩水は、いまの北朝鮮の清川江とする説が有力である。隋の将軍の一人が戦死し、軍は総崩れになった。生き残った兵は、一日一夜で450里を走って鴨緑江まで逃げたという。
『隋書』によれば、9軍30万5000のうち、遼東城まで戻れたのは2700人だった。数字には誇張もあるとみられるが、壊滅的な敗北だったことは確かである。海から平壌を突こうとした水軍も敗れ、煬帝は全軍を引き揚げた。
煬帝はあきらめなかった。613年にも遠征したが、本国で重臣の楊玄感が反乱を起こし、引き返した。614年には、疲れきった高句麗が降伏を申し出て、遠征はかろうじて形を整えて終わった。だが、度重なる遠征のための徴発と重税に、各地の農民が反乱を起こした。618年、煬帝は江南の江都で部下に殺され、隋は2代、38年で滅んだ。同じ年、唐が建てられる(唐の成立)。
唐も高句麗を攻めあぐねた。645年には太宗が自ら遠征したが、安市城で止められた(安市城の戦い)。高句麗が落ちるのは668年、唐と新羅が手を組み、高句麗の内紛につけこんだときである(高句麗の滅亡)。
乙支文徳は、その生まれも、その後の生涯も、ほとんど分かっていない。それでも、大国の大軍を退けた将軍として、朝鮮半島ではいまも最もよく知られる英雄の一人である。ソウルの中心を東西に走る大通りは、その名をとって乙支路と呼ばれている。