文禄・慶長の役

概要
朝鮮へ二度出兵し、明も加わる国際戦争になった。秀吉の死で撤退し、三国とも疲弊する。
場所
37.57°N 126.98°E · 韓国
関わった人(4)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 命令李舜臣AD1545年4月28日–AD1598年12月16日 · 朝鮮水軍石田三成AD1560年–AD1600年11月6日(慶長5年10月1日) · 兵站伊達政宗AD1567年9月5日–AD1636年6月27日 · 出陣本文
1590年、豊臣秀吉は日本を一つにまとめた(秀吉の天下統一)。だが秀吉の目は、すでに海の外を向いていた。明を征服し、天皇を北京に移すという構想を、周りに語っていたことが手紙などから分かっている。その道筋にあたる朝鮮には、明へ攻め入るための道を貸せと求めた。明に仕える朝鮮が、これを受け入れるはずはなかった。秀吉がなぜ海外への出兵にこだわったのかは、領地を求める大名を満たすため、国内の統一の勢いのまま、など諸説があり、決め手はない。
1592年、日本でいう文禄元年の春、小西行長と宗義智の軍が釜山に上陸した。続いて加藤清正らの軍が次々に渡り、兵の数は全体で15万人を超えた。長い戦国の世で鍛えられ、鉄砲を大量に持つ日本軍に、朝鮮の軍は持ちこたえられなかった。上陸から20日ほどで、都の漢城(いまのソウル)が落ちた。国王の宣祖は北へ逃れ、明との国境近くまで退いた。日本軍は平壌まで進んだ。

だが、陸の勝利は海で崩れた。全羅道の水軍を率いる李舜臣が、南の海で日本の船団をくり返し破ったのである。その年の夏の閑山島の海戦では、日本の水軍をおびき出して囲み、大きな打撃を与えた(亀甲船と閑山島)。屋根を板で覆った亀甲船も、このころの戦いで使われている。海を押さえられた日本軍は、兵と食糧を船で北へ送れなくなった。
各地では、儒学者や僧が率いる義兵が立ち上がり、日本軍の補給の列を襲った。そして1593年の初め、李如松の率いる明の大軍が朝鮮に入り、平壌を取り返した。日本軍は漢城の北の碧蹄館で明軍を退けたが、もはや北へは進めず、漢城も捨てて南の海岸へ退いた。漢城で兵站を受け持っていた奉行の一人が石田三成である。この年には伊達政宗も海を渡った。

戦いが膠着するなか、講和の交渉が始まった。日本側は小西行長、明側は沈惟敬が受け持った。だが二人とも、戦いを終わらせたいあまり、自国には相手が折れたかのように伝えた。秀吉は、明の皇女を天皇の后に迎えることや朝鮮南部の割譲などを求めていたが、明は秀吉を日本国王に任じれば済むと考えていた。1596年、明の使者が来て秀吉を日本国王に封じると、話の食い違いが表に出た。秀吉は怒り、ふたたび出兵を命じた。
1597年、慶長の役が始まった。今度は明も朝鮮も備えていた。日本の水軍は、李舜臣に代わって指揮をとった元均の朝鮮水軍を漆川梁で壊滅させたが、呼び戻された李舜臣は、わずか十数隻の船で鳴梁の海峡に日本の船団を迎え撃ち、退けた。陸では日本軍が南の全羅道を荒らしたが、冬が来ると海岸に築いた城にこもり、蔚山の城では明と朝鮮の大軍に囲まれて、兵が飢えと寒さに苦しんだ。

慶長3年(1598年)8月、秀吉が伏見城で死んだ。日本軍は撤退を始めた。その年の暮れ、退こうとする日本の船団を朝鮮と明の水軍が露梁の海で襲い、この戦いで李舜臣は銃弾を受けて死んだ。7年に及ぶ戦争は、こうして終わった。
最も大きな被害を受けたのは、戦場になった朝鮮だった。多くの人が殺され、田畑は荒れ、戸籍も焼けた。日本軍は戦功の証として討ち取った者の鼻を切って送り、京都にはそれを埋めた耳塚が残る。日本へ連れ去られた人も数万人にのぼったとされ、その中には陶工がいた。九州の有田焼や薩摩焼は、連れてこられた陶工たちが始めたものである。
援軍を送った明も、大きな出費で財政を傷めた。その北では、女真のヌルハチが力を蓄えていた。20年ほど後、明はサルフでヌルハチに大敗し(サルフの戦い)、やがて清に取って代わられる(清の中国支配)。朝鮮出兵は、明が衰える理由の一つに数えられる。

日本では、戦争の中で大名たちの対立が深まった。前線で戦った加藤清正らと、秀吉のそばで指示を伝えた石田三成らとの溝である。出兵しなかった徳川家康は力を温存していた。秀吉の死から2年後、その溝は関ヶ原の戦いで決着することになる。朝鮮との国交は、家康の代になって、対馬の宗氏の仲立ちで1607年に回復した。