新羅の骨品制
概要
血筋で就ける官位の上限が決まる身分制を、法として定めた。能力では越えられない。この壁が、のちに人材を唐へ流出させる。
場所
35.86°N 129.22°E · 大韓民国(新羅の都)
本文
新羅は、朝鮮半島の南東、いまの慶州を中心にした国で、三国のうちで最も遅れて国の形を整えた。伝承では紀元前57年に赫居世が国を開いたとされ(新羅の建国(伝承))、長く朴・昔・金の三つの家から王が出ていた。4世紀の後半からは金氏が王位を独占し、周りの小国を従えながら、少しずつ王の権力を固めていった。
520年、法興王は律令を定め、官僚が着る服の色の序列を決めた。官位は17の等級に整えられた。この官位の仕組みと結びついて形をとったのが、骨品制と呼ばれる身分の制度になる。骨品制そのものがいつ、どのように成立したのかは史料が乏しく、議論がある。法興王はこのほかにも、仏教を公に認め、独自の年号を立てた。仏教については、臣下の異次頓が自ら首を斬られ、白い血が噴き出す奇跡を見せて貴族たちの反対を退けた、という伝説が残る。王を頂点とする国の仕組みが、この王の時代に一気に整えられた。

骨品制は、人を「骨」と「頭品」で分ける。王族のうち、父母ともに王族の者が聖骨、それに次ぐ王族が真骨とされた。その下に、六頭品から一頭品までの階層が続く。三頭品から下は、やがて一般の民と区別がなくなっていったと考えられている。
この身分によって、就ける官位の上限が決まる。17等の官位のうち、上から5番目までは真骨しか就けない。六頭品は6番目まで、五頭品は10番目まで、四頭品は12番目まで。官服の色も、紫は真骨の高官だけ、赤、青、黄と身分ごとに分かれた。どれほど有能でも、生まれた骨品の上限を越えることはできない。宰相や将軍の職は、真骨が独占した。
縛りは官位だけではなかった。のちの時代の規定では、住む家の部屋の広さ、使ってよい瓦や木材、車の飾り、馬具、着る服の布地、使う器まで、骨品ごとに細かく決められていた。暮らしのすみずみまで、生まれが刻み込まれていた。
六頭品は、もとは小国の王家や有力な家の子孫で、学問や実務に優れた人が多かった。それでも上には行けない。その不満は、早くから記録に残る。7世紀の初め、六頭品の薛罽頭は、新羅では人を用いるのに骨品を論じるので、才能があっても上に行けない、と言って唐へ渡り、唐の軍で戦って死んだと伝わる。
聖骨の王の血筋は、7世紀に絶えた。善徳女王の即位の後を継いだ真徳女王が、最後の聖骨の王になる。男の聖骨がいなくなったために、女王が二代続いたとも言われる。654年、真骨の金春秋が王位に就いた。武烈王である。彼と、その盟友で金官伽耶の王家の血を引く金庾信のもとで、新羅は唐と結び、百済と高句麗を滅ぼして半島の大半をまとめた(新羅の朝鮮半島統一)。
統一のあとも、骨品制は続いた。王都慶州の真骨の貴族たちは、豊かな暮らしを楽しむ一方で、王位をめぐる争いを繰り返した。8世紀の後半から、王が殺され、王位が次々に替わる時代に入る。
この壁が、人材を外へ押し出した。六頭品の若者たちは、唐へ留学して道を開こうとした。崔致遠は12歳で唐へ渡り、18歳で外国人のための科挙に合格した。黄巣の乱のとき、反乱の首領に向けて書いた檄文で名を上げている。だが、帰国した新羅で、六頭品の彼が就ける地位には限りがあった。国を立て直す策を王に差し出したが、受け入れられず、やがて官を退いて山に入り、各地を巡って消息を絶った。
9世紀の末、新羅の地方では、豪族たちが自立して争う後三国の分立の時代になる。六頭品の知識人の多くは、骨品の壁のない新しい勢力に付いていった。高麗の建国のあと、高麗は六頭品の家の出の学者を重く用い、やがて高麗の科挙を始めた。生まれではなく、試験で官僚を選ぶ道が開かれた。
血筋が国を支え、同じ血筋の壁が国を内側から弱らせた。骨品制は、新羅の千年近い歴史の、強さと限界を両方映している。