人物

全斗煥

Chun Doo-hwan
AD1931年1月18日 – AD2021年11月23日(享年90)
大韓民国重要度 3

概要

陸士11期。朴正熙の暗殺のあと粛軍クーデターで軍を握り、光州を鎮圧し、大統領に。7年。ソウル五輪を招致した。退任後、寺に籠り、1996年に反乱と収賄で死刑判決、特赦。追徴金を払わずに90歳で死んだ。光州には謝らなかった。

関わったできごと(1)

光州民主化運動AD1980年5月18日 · 鎮圧

本文

1931年1月18日、日本の統治下にあった朝鮮の慶尚南道陜川の貧しい農家に生まれた。幼いころ一家は満州に渡り、のちに大邱に移り住んだ。1951年、朝鮮戦争のさなかに陸軍士官学校に入り、1955年に卒業した。11期生で、4年制の正規課程を終えた最初の卒業生である。同期に、のちに後継の大統領となる盧泰愚がいた。

朝鮮戦争に関わる図版:Chosin
朝鮮戦争Wikimedia Commons Photo by Corporal Peter McDonald, USMC · Public domain

1961年5月、朴正熙が軍事クーデターを起こすと、全斗煥は士官学校の生徒たちを率いて支持の行進を組織し、朴正熙の目に留まった。以後、朴政権の中枢に近いところで昇進を重ねる。同期や後輩の将校とともに私的な将校団「ハナ会」を作り、朴正熙の庇護のもとで陸軍の要職を固めていった。ベトナム戦争では連隊長として派兵された。1979年3月、軍の情報と防諜を担う国軍保安司令官になった。

1979年10月26日、朴正熙が側近の中央情報部長金載圭に射殺された。全斗煥は合同捜査本部長として事件の捜査を握った。12月12日の夜、彼はハナ会の将校たちと部隊を動かし、上官である戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を、事件に関わった疑いがあるとして大統領の裁可なしに逮捕した。前線の師団まで首都に入れた、この粛軍クーデターで、軍の実権は全斗煥の手に移った。

訪韓したレーガン大統領と(1983年11月13日)
訪韓したレーガン大統領と(1983年11月13日)Wikimedia Commons President (1981-1989 : Reagan). White House Photographic Office. 1981-1989 · Public domain

1980年の春、韓国は「ソウルの春」と呼ばれる民主化の空気に包まれ、学生たちは戒厳令の解除を求めて街に出た。5月17日、全斗煥らは非常戒厳を全国に広げ、金大中らの政治家を逮捕した。翌18日、全羅南道の光州で抗議に立った学生と市民に空挺部隊が襲いかかり、市民は武器を取って対抗した(光州民主化運動)。27日に軍が市内を制圧するまでに、多数の市民が殺された。犠牲者の数はいまも確定していない。

8月、崔圭夏大統領が辞任すると、全斗煥は統一主体国民会議の間接選挙でただ一人の候補として大統領に選ばれた。翌1981年、任期7年の一期限りとする新憲法のもとで改めて選ばれ、第五共和国が始まった。「正義社会の実現」を掲げる一方で、「社会浄化」の名のもとに、やくざや不良とされた人々を中心に約4万人を軍の三清教育隊に送り、過酷な訓練で死者を出した。新聞と放送局は統廃合され、報道には毎日のように指針が下された。

ワシントン訪問を終えて出発する全斗煥大統領夫妻(1981年)
ワシントン訪問を終えて出発する全斗煥大統領夫妻(1981年)Wikimedia Commons Public domain

締めつけの一方で、人々の暮らしの不満をそらす政策も打った。1980年にカラーテレビの放送を始め、1982年には37年続いた夜間通行禁止を解き、同じ年にプロ野球を発足させた。中高生の制服と髪型の規制も緩めた。1981年には1988年の夏季オリンピックのソウル招致を勝ち取った。政権のもとでインフレは収まり、80年代半ばには輸出が伸びて高い成長を続けた。

1983年10月9日、ビルマのラングーン(いまのヤンゴン)を訪れた全斗煥は、アウンサン廟で北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾の標的になった。到着が数分遅れたために助かったが、副首相や外相を含む随行の閣僚・高官ら韓国側17人を含む21人が死んだ。

全斗煥と米陸軍少将クリックライター(1985年3月)
全斗煥と米陸軍少将クリックライター(1985年3月)Wikimedia Commons AL CHANG · Public domain

1987年1月、ソウル大生朴鍾哲が警察の拷問で死んだことが明るみに出た。全斗煥は4月13日、大統領の直接選挙を求める声を退けて現行憲法を守ると宣言したが、これが火に油を注ぎ、6月には全国で数百万人が街頭に出た(六月民主抗争)。後継に指名されていた盧泰愚が6月29日に直接選挙の受け入れを宣言し、全斗煥はこれを認めた。1988年2月、彼は任期を終えて退いた。韓国で、大統領が任期を全うして平和に交代したのは初めてだった。

退任後、在任中の不正と光州の真相をめぐる国会の聴聞会が開かれ、1988年11月、全斗煥は国民に謝罪する声明を読み上げて、江原道の山寺、百潭寺に入った。2年あまりそこで暮らした。1995年、金泳三政権は「歴史の立て直し」を掲げ、光州事件の責任者を裁く特別法を作った。全斗煥は逮捕され、1996年、一審で反乱首謀・内乱首謀・収賄の罪により死刑を言い渡された。控訴審で無期懲役となり、1997年4月に確定したが、同年12月、大統領選挙で金大中が当選したあと、金泳三の特赦で釈放された。

裁判で命じられた2205億ウォンの追徴金のうち、払ったのは一部だけだった。2003年には法廷で、手元の財産は29万ウォンしかないと述べて、韓国じゅうの怒りを買った。2017年の回顧録では、光州での軍のヘリコプターからの射撃を証言した神父を嘘つき呼ばわりし、死者の名誉を傷つけた罪で起訴された。2020年、光州地裁は有罪を言い渡し、彼は控訴した。

2021年11月23日、ソウルの自宅で死んだ。90歳。1か月前には盟友の盧泰愚が死んでいた。内乱罪で有罪となった彼は国立墓地に入れず、遺骨は2年近く自宅に置かれた。光州の犠牲者に、彼は最後まで自分の言葉で謝らなかった。2023年、孫の一人が光州を訪れ、祖父に代わって遺族の前でひざまずいた。経済の安定やオリンピックの招致を挙げる声はいまもあるが、韓国で彼の名は、まず光州の名とともに語られる。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1931年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →