できごと

衛満朝鮮

Wiman Joseon
BC194年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイマウリヤ朝匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとマレー系の人びとツングース系の人びとモン・クメール系の人びとシャンシュン王国Min-YueアイヌNan-YueBC194年平壌
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC194年の版図を描いています(17勢力)。

概要

燕から千人余りを連れて亡命した衛満が、箕子朝鮮の準王を追い出して王になった。髷を結い、朝鮮の服を着た。漢の外臣として周りの部族を従え、孫の右渠のとき漢と対立して、BC108年に武帝に滅ぼされて楽浪郡になった。

場所

平壌
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国

関わった人(1)

衛満王

本文

朝鮮半島の最初の国は、のちの伝説では檀君が開いたと語られる(檀君神話(伝承))。中国の書物には、殷の王族の箕子が東へ逃れて朝鮮の王となり、その子孫が代々王を継いだと書かれている。いわゆる箕子朝鮮である。箕子の話がどこまで事実かは分からず、のちの時代に作られた伝承と見る研究者が多い。ただ、紀元前3世紀ごろ、遼東から朝鮮半島の北西にかけて、「朝鮮」と呼ばれる勢力があり、準という王がいたことは、中国の記録からうかがえる。

その西隣には、中国の戦国時代の燕があった。紀元前222年に燕が秦に滅ぼされ、秦がまもなく倒れて漢が起こると、この辺境は大きく揺れる。漢の高祖は、仲間の盧綰を燕の王に封じたが、盧綰は紀元前195年ごろ漢に背いて北の匈奴のもとへ逃げた。その混乱の中で、燕の人、衛満(衛満)が千人あまりの仲間を連れて東へ逃れる。

History of Korea-315
Wikimedia Commons Historiographer at English Wikipedia · Public domain

司馬遷の『史記』は、このときの衛満の姿を、髷を結い、東の異民族の服を着ていた、と書いている。衛満は川を渡って、秦の時代に空き地とされた土地に住みつき、土地の人びとや、燕や斉から逃れてきた人びとを従えていった。朝鮮の準王は、衛満を信用して西の境を守る役を任せた。

ところが衛満は、亡命者が増えて力をつけると、漢の大軍が攻めてくるので王を守りに行く、と偽って都に入り、準王を追い出して自ら王になった。紀元前194年ごろのことである。都は王険城と呼ばれ、いまの平壌のあたりとされる。追われた準王は、海を渡って半島の南へ逃れ、韓の王を名乗ったと、のちの中国の歴史書は伝えている。

衛満は、漢の遼東の太守と取り決めを結び、漢の「外臣」となった。塞の外の異民族を抑えて漢の辺境を荒らさせず、諸部族の長が漢の皇帝に会いに行くのを妨げない。その代わりに、漢から兵器や財物の支えを受けた。衛満はこの後ろ盾を生かして周りの真番や臨屯といった部族を従え、その支配は数千里四方に及んだという。

衛満の孫、右渠の代になると、関係が変わる。漢から逃れてくる者をかくまい、自らは漢の皇帝のもとへ挨拶に行かず、南の国々が漢に使いを送るのも妨げた。周りの国々と漢との交易を一手に握ろうとしたとも考えられている。

漢では、領土の拡大に積極的な漢の武帝が位にあった。紀元前109年、武帝は使者の渉何を送って右渠を説かせたが、右渠は従わない。渉何は帰り道、見送りの朝鮮の高官を殺して手柄を誇り、その功で遼東の役職を与えられた。怒った朝鮮は兵を出して渉何を殺す。これを口実に、武帝は海と陸の二手から大軍を送った。

戦いは漢の思うようには進まなかった。王険城は固く、海からの楊僕と陸からの荀彘の二人の将軍は手柄を争って仲が悪く、包囲は長引いた。結局、王の家臣たちが漢に通じて右渠を殺し、紀元前108年、城は落ちた。『史記』によれば、戻った二人の将軍のうち荀彘は処刑され、楊僕も官を奪われている。

武帝は衛氏の朝鮮の地に、楽浪、真番、臨屯、玄菟の四つの郡を置いた(楽浪郡の設置)。ほかの郡はまもなく廃止されたり移されたりしたが、楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされるまで、400年あまり続く。平壌の周りからは、漢の様式の墓や、漆器、印章が数多く見つかっている。楽浪郡は、中国の文字や制度が朝鮮半島や日本列島へ伝わる窓口にもなった。

楽浪郡の設置に関わる図版:Early 4th century Lelang Commandery
楽浪郡の設置Wikimedia Commons Asieon · CC0

衛満の国をどう見るかは、いまも意見が分かれる。高麗の時代の『三国史記』は三国の時代から書き起こして衛満の国を扱わなかったが、『三国遺事』は「衛満朝鮮」の章を立てて、古い朝鮮の歴史の一部として語った。衛満は燕から来た人だったが、髷を結い、土地の服を着ていた。そこで、彼を土地の人びとに溶け込んだ朝鮮の王と見る人と、中国の人が建てた植民の国と見る人がいる。どちらの見方をとるかは、古い時代の歴史を、いまの国と民族の物語にどう結びつけるかという問いと、切り離せない。

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