世宗
概要
民が読み書きできるようにと訓民正音(ハングル)を作らせた。支配層の反対を押し切った。
所属
朝鮮王朝関わったできごと(1)
訓民正音の頒布AD1446年10月9日 · 作った本文
1397年、のちの朝鮮王朝第3代の王、太宗の三男として漢城(いまのソウル)に生まれた。名は李祹。祖父は1392年に王朝を開いた李成桂である(朝鮮王朝の成立)。王朝ができてまだ5年、王位をめぐって王子たちが血を流し合っていた時代だった。父の太宗自身、兄弟を殺して王位に就いている。

朝鮮王朝の第4代になる。三男で、王になる予定は無かった。兄二人が自ら辞退した、と後世には語られる。実際には、長兄の譲寧大君は振る舞いの乱れを理由に太宗によって世子の座を外され、次兄の孝寧大君は仏門に入った。1418年、太宗は学問好きで知られた三男を世子に立て、その2か月後に王位を譲った。21歳である。ただし、太宗は死ぬまで軍の権限を握り続けた。翌年の対馬への遠征も、太宗の主導で行われている。
幼い頃から本を手放さず、病に伏しても読書をやめないので、父が書物を取り上げたという話が伝わる。同じ本を百回読んだとも言われる。

やったことの幅が広い。1420年、宮中の集賢殿という研究機関を大きくし、若い学者を集めて、古今の制度や書物を研究させた。学者たちには、休暇を与えて山の寺で読書に専念させる制度まで設けている。政策を決める前に、この学者たちに先例を調べさせ、議論させた。
天文観測の器械、雨量計、水時計。天体の位置を測る渾天儀、日時計、時刻になると人形が鐘や太鼓を鳴らす自動の水時計が作られた。水時計を作った蒋英実は、もとは官に属する奴婢の身分だったが、世宗に才能を見出されて官職を与えられた。1441年に作られた雨量計(測雨器)は、各地に置かれて雨の量を記録させた。農業のために、天気を数で捉えようとしたのである。

印刷にも力を入れた。朝鮮半島では高麗の時代に金属活字の技術が生まれており(『直指』の印刷)、世宗は鋳造の工夫を重ねさせて、字の形の整った銅の活字を作らせた。1434年に作られた活字は、1日に刷れる量を大きく増やしたと記録される。
農書を、朝鮮の風土に合わせて編ませた。それまで中国の農書をそのまま使っていた。各地の経験豊かな農民に聞き取りをして、1429年に『農事直説』をまとめさせている。暦も、中国の都ではなく漢城を基準に計算し直させた。医学書や、儒教の道徳を絵で教える本も作らせた。

北では、女真の勢力を退けて鴨緑江と豆満江の流域に城を築き、いまの朝鮮半島の北の境のもとになる線を固めた。南の住民を北へ移して開拓させている。音楽では、学者の朴堧に宮廷の音楽を整えさせ、自ら作曲もしたと伝えられる。
民への目配りを示す記録もある。官に属する奴婢の女性が子を産むとき、それまで7日だった休みを100日に延ばし、のちにその夫にも30日の休みを与えるよう命じた。刑罰では、拷問の行き過ぎを戒め、死刑には三度の審理を求めた。

そして、訓民正音の頒布になる。当時、朝鮮の書き言葉は漢文だけで、漢字を学ぶ余裕の無い民は、文字を持たなかった。世宗は自ら中心になり、集賢殿の学者たちと文字づくりを進めた。1443年に完成し、1446年に頒布される。子音の字は発音するときの口や舌の形をかたどり、母音の字は天・地・人を表す点と線から作られた。28の字を組み合わせて、話し言葉をそのまま書き表せる。
序文に目的が書かれている。愚かな民が言いたいことを書き表せないのを憐れんで作った、と。知恵のある者なら朝のうちに、愚かな者でも10日で学べる、とも書かれている。

支配層の反対を押し切った。集賢殿の副提学だった崔萬理らは、中国と違う文字を作るのは野蛮の国のすることだ、学問が衰える、と上疏した。世宗はこれに対して自ら反論し、反対した学者たちを一時投獄している。新しい文字で最初に書かれたのは、王朝の始まりをたたえる長い歌だった。
体は丈夫ではなかった。肉を好んで太り、晩年は糖尿病とみられる病と目の病に苦しんだ。父の太宗は、息子が喪に服して肉を断てば体を壊すと案じ、自分の死後も肉を食べさせるよう遺言したと記録にある。1450年、52歳で死んだ。
文字は、その後も長く、漢文を使う両班からは「諺文」と軽んじられ、女性や庶民の文字とされた。正式な文書の文字となるのは19世紀末になってからである。20世紀に入ってハングルと呼ばれるようになり、日本の統治下では使用が制限された時期もあった。
いま韓国で、最も評価の高い王になる。10月9日はハングルの日として祝日になり、1万ウォン札には肖像が描かれている。世宗大王と、「大王」をつけて呼ばれる。在位中の政治の記録は『世宗実録』として残り、王と臣下が何を議論したかを細かくたどることができる。王が一人で何でも成し遂げたわけではなく、集賢殿の学者や技術者たちの仕事が重なっていた。それでも、才能のある者を身分によらず用い、民が文字を持つことに価値を見た王がいたことは、確かに記録に残っている。