真興王
概要
7歳で王に。母が摂政。百済と組んで高句麗から漢江の上流を取り、次に百済の下流を奪った。聖王が怒って攻めてきて管山城で死んだ。562年、大伽耶を滅ぼした。花郎、皇龍寺、巡狩碑。晩年は剃髪して法雲と名乗った。
所属
新羅関わったできごと(1)
真興王の巡狩碑AD561年 · 王本文
新羅の第24代の王。名は彡麦宗、または深麦夫と伝えられる。父は法興王の弟、母は法興王の娘で、伯父にあたる法興王の後を継いだ。540年に即位したとき、『三国史記』は7歳だったと書き、『三国遺事』は15歳だったと書く。幼い王に代わって、母の只召太后が政治を執った。
新羅は朝鮮半島の南東の隅、いまの慶州を都とする国で、三国の中では最も遅れて国家の形を整えた。伝承では紀元前57年の建国とされる(新羅の建国(伝承))が、北の高句麗、西の百済に比べて長く弱小だった。それが6世紀に入って急速に力をつける。真興王の伯父の法興王は、律令を定め、身分の秩序を整え(新羅の骨品制)、527年には仏教を公認した。さらに532年には、南の金官伽耶を併合した(金官伽耶の建国(伝承))。真興王はこの基盤を受け継ぎ、新羅の領土を一気に広げることになる。
545年、真興王は重臣の居柒夫に国の歴史を編ませた。この『国史』は残っていないが、国としての自覚が高まっていたことがうかがえる。551年、真興王は親政を始め、年号を「開国」と改めた。
当時、半島の中央を流れる漢江の流域は、高句麗が押さえていた。475年に百済の都の漢城が高句麗に落とされて以来(百済の漢城陥落)、百済にとって漢江を取り戻すことは悲願だった。551年、新羅は百済の聖王と手を結び、高句麗を攻めた。百済は漢江の下流の6郡を取り戻し、新羅は上流の10郡を手に入れた。高句麗は国内の争いと北方の脅威を抱えていて、反撃できなかった。
ところが2年後の553年、新羅は同盟を破り、百済が取り戻したばかりの漢江下流を奪い取った。そこに新州を置き、軍の長として金武力を任じた。金武力は新羅に降った金官伽耶の王族の子で、のちに半島統一の功臣となる金庾信の祖父にあたる。漢江の河口を得たことで、新羅は黄海に出て、中国の王朝と直接行き来できる道を手に入れた。これがのちの統一の大きな足がかりになった。
裏切られた百済の聖王は、554年、伽耶や倭の兵も加えて新羅を攻めた。聖王は日本に仏教を伝えた王としても知られる(仏教の日本伝来)。だが、管山城(いまの沃川)の戦いで、聖王はわずかな兵を連れて前線へ向かう途中、新羅の伏兵に捕らえられ、斬られた。『三国史記』は、百済は佐平(最高位の官人)4人と3万近い兵を失ったと記す。この戦いで、百済と新羅の同盟は完全に崩れ、両国は以後100年あまり敵どうしになった。
562年、真興王は異斯夫を将として、半島南部に残っていた伽耶諸国の盟主、高霊の大伽耶を攻め滅ぼした。このとき、15、16歳の花郎の斯多含が、5000の騎兵を率いて真っ先に城門に突入したと伝えられる。伽耶の諸国は、これでほぼすべて新羅に組み込まれた。倭(日本)にとっては、朝鮮半島南部の足場を失うことを意味した。
真興王は、広げた領土の各地をみずから巡り、碑を立てた。南は昌寧、北は漢江流域の北漢山、さらに東北の咸鏡道の黄草嶺と磨雲嶺にまで、王が巡った記念の碑(真興王の巡狩碑)が残る。568年の碑には、四方の境を定め、民と土地を広く得た、と王の言葉が刻まれている。北漢山の碑は長く誰の碑か分からず、高麗の僧が立てたものなどと言われていたが、1816年、朝鮮の学者の金正喜が碑文を読み解き、真興王の巡狩の碑だと突き止めた。
真興王は仏教を国の柱にした。都の慶州に、新しい宮殿を建てる場所に黄色い龍が現れたとして、これを寺に改め、皇龍寺とした。574年には、銅3万5千斤あまり、金1万分あまりを使って、丈六の巨大な仏像が鋳造された。皇龍寺はのちに九重の塔が建てられ、新羅で最大の寺になる。王家は仏教を通じて自らの権威を高め、真興王の後の王たちは、仏典にちなむ名を名乗るようになった。
真興王の時代に始まったとされるのが、花郎である。『三国史記』によれば、はじめ王は二人の美しい女性を選んで源花とし、若者たちを率いさせたが、二人が嫉妬で争い、一人がもう一人を殺したので廃止した。代わりに、家柄のよい美しい少年を選んで化粧をさせ、花郎として若者の集団を率いさせた。若者たちは歌舞を楽しみ、山や川を巡って修養し、その中から人柄を見て、優れた者が朝廷に推された。のちに新羅の統一を担った将軍たちの多くは、この花郎の出身だった。
晩年、真興王は髪を剃って僧衣をまとい、法雲と名乗ったと伝えられる。王妃も出家して尼になった。576年、真興王は亡くなった。在位は37年に及んだ。
真興王が漢江流域を奪い、伽耶を併せたことで、新羅は三国の中でもっとも勢いのある国になった。だが、その代償として、百済と高句麗の両方を敵に回すことになった。孤立した新羅は、やがて海の向こうの唐と結び、7世紀に百済と高句麗を滅ぼして半島を統一する(新羅の朝鮮半島統一)。その道筋をつけたのが真興王だった。