人物

文武王

King Munmu
? – AD681年
新羅重要度 4

概要

金法敏。武烈王の子。母は金庾信の妹。661年に即位し、高句麗を滅ぼし、唐と8年戦った。「私は東海の竜になる」。海の岩の下に葬られた。大王岩。感恩寺。息子神文王が、父の竜が海から吹く笛を作ったという万波息笛の伝説。

所属

新羅

関わったできごと(2)

百済の滅亡AD660年 · 新羅の太子として高句麗の滅亡AD668年 · 新羅王

本文

文武王は、名を金法敏という。新羅の王族で、のちに武烈王となる金春秋の長男として生まれた。母の文明王后は、新羅随一の将軍金庾信の妹である。生まれた年ははっきりしない。父と伯父がそろって新羅の命運を握った家に育ち、若いころから外交と戦の第一線に立った。

7世紀の半ば、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が争い、新羅は西の百済に攻められて苦しんでいた。642年には百済に大耶城を落とされ、城を守っていた金春秋の娘、つまり法敏の姉が夫とともに命を落としている。金春秋は高句麗に助けを求めて断られ、唐に頼る道を選んだ。648年、唐に渡った金春秋は、太宗と結んで百済と高句麗を挟み撃ちにする約束を取りつけた。650年には法敏自身が唐へ使いし、新羅の女王が唐の皇帝をたたえて作った詩を献じている。

660年、唐の将軍蘇定方の大軍が海を越えてきたとき、太子となっていた法敏は軍船を率いて黄海の徳物島まで出迎えた。新羅と唐の挟み撃ちにあって百済の都は落ち、百済は滅んだ(百済の滅亡)。『三国史記』によれば、このとき法敏は、降伏した百済の太子扶余隆を自分の前にひざまずかせ、その顔に唾を吐き、18年前に姉を殺された恨みを述べたという。

翌661年、父の武烈王が亡くなり、法敏が王位に就いた。即位してすぐ、唐から高句麗攻めへの協力を求められた。唐軍は平壌を囲んだものの、冬の寒さと飢えに苦しんだ。新羅は金庾信らに兵糧を運ばせ、雪の中を平壌まで届けた。663年には百済を復興しようとする勢力と、それを助けに来た倭の軍勢を、唐と新羅が白村江と周留城で破った(白村江の戦い)。665年、文武王は唐の将軍劉仁軌の立ち会いのもと、熊津の就利山で、唐が百済の旧地に立てた扶余隆と和親の誓いを結ばされた。かつて唾を吐いた相手と、唐の命令で盟約を交わしたのである。

668年、唐と新羅の連合軍は平壌を落とし、高句麗も滅んだ(高句麗の滅亡)。だが、ここで唐は本心を見せた。平壌には安東都護府を置いて将軍薛仁貴に治めさせ、百済の旧地にも唐の役所を置いて、半島全体を自分の支配下に組み込もうとした。648年の約束では、平壌より南は新羅のものになるはずだった。

文武王は、唐と戦う道を選んだ。670年、高句麗の遺民の剣牟岑が王族の安勝を立てて立ち上がると、新羅は安勝を迎え入れ、金馬渚(いまの益山)に住まわせて高句麗王に封じた。旧高句麗の人々を味方につけて唐に当たらせるためである。671年には百済の旧都泗沘を押さえ、そこに所夫里州を置いた。このとき唐の薛仁貴は文武王に手紙を送り、唐の恩を忘れたのかと責めた。文武王は長い返書を書き、648年に太宗が金春秋に約束したことから説き起こして、新羅がいかに唐のために血を流してきたかを述べ、背いたのは唐の側だと反論した。その全文は『三国史記』に収められている。

674年、唐の高宗は文武王の官爵を取り上げ、唐にいた王の弟金仁問を新羅王に立てて、大軍を送ってきた。文武王は唐に謝罪の使者を送って時をかせぐ一方で、戦いを続けた。675年、新羅軍は買肖城で唐の将軍李謹行の軍を破り、『三国史記』によれば3万380頭の馬を奪った。676年には錦江の河口の伎伐浦で、薛仁貴の水軍と大小20回あまり戦って勝った。唐は安東都護府を遼東へ移し、大同江から元山湾のあたりより南は新羅のものとなった(新羅の朝鮮半島統一)。半島の北部と旧高句麗の大部分は新羅の手に入らなかったが、新羅は大国唐を相手に一歩も引かず、自分の国を守り抜いた。

戦が終わったあとの文武王は、国の守りと仕組みを整えることに力を注いだ。晩年、王が都の城壁を新しく築こうとしたとき、僧の義湘が、王の政が正しければ草の野に線を引いただけでも城になるが、そうでなければどんなに長い城壁を築いても災いは防げない、と書き送り、王は工事をやめたと『三国史記』は伝える。

681年7月1日、文武王は在位21年で亡くなった。『三国史記』に残る遺詔で、王は、死んだら10日のうちに仏の教えに従って火葬にせよ、葬儀は質素にせよ、と命じた。そして遺言どおり東の海の口の大きな岩の上に葬られ、人々は、王は竜になったと語り伝えた、とある。13世紀の『三国遺事』は、さらに詳しく、王が生前に、死んだら国を守る竜になって倭の侵入を防ぎたい、と語っていたと記す。

慶州の東、日本海に面した奉吉里の沖に、大王岩と呼ばれる岩がある。これが文武王の葬られた場所とされ、1967年の調査で「海中の王陵」として広く知られるようになった。ただ、岩の中に遺骨を納めた跡があるのか、火葬した骨を海に撒いた場所なのかについては、いまも見方が分かれている。岸に近い感恩寺は、文武王が倭を退けるために建て始め、息子の神文王が682年に完成させた寺で、二基の三層石塔がいまも残る。寺の金堂の床下には、竜になった王が出入りできるよう海へ通じる穴を設けたと『三国遺事』は伝え、発掘ではその床下の空間が確かめられた。

神文王が海を見下ろす利見台で竜を見て、竜から授かった竹で笛を作ると、吹くたびに敵が退き、病が癒え、波が静まったという「万波息笛」の伝説も、この王の死から生まれた。唐と組んで二つの国を滅ぼし、次には唐と戦って新羅を守った文武王は、死んだのちも海から国を見守る王として記憶された。

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