好太王碑
概要
高さ6mを超える石碑。倭との戦いにも触れており、読み方をめぐる論争がいまも続いている。
場所
41.13°N 126.19°E · 中国・吉林省集安市(高句麗の都)
関わった人(1)
好太王AD374年–AD412年 · 顕彰された当人本文
4世紀から5世紀の朝鮮半島とその北の満洲南部では、高句麗、百済(百済)、新羅(新羅)の三国が争い、南端には小国の連合である加耶があった。海の向こうの倭(日本列島の勢力)も、百済や加耶と結んで半島の争いに関わっていた。この時代の朝鮮半島について、同時代に書かれた記録は乏しい。朝鮮の最古の歴史書『三国史記』ができるのは12世紀、日本の『日本書紀』も8世紀である。だから、5世紀の初めに立てられた一つの石碑が、かけがえのない史料になる。
その碑は、中国の吉林省集安市、鴨緑江の北岸の平地に立っている。ここはかつて高句麗の都、国内城があった場所である。碑は自然の大きな石を四角い柱のように整えたもので、高さは6.3メートルほどあり、四つの面に、合わせて1800字近い漢字がびっしりと刻まれている。414年、高句麗の長寿王が、亡き父好太王の功績を讃えて立てさせた。好太王の陵とみられる大きな墓が、すぐ近くにある。

好太王は391年に18歳で即位し、412年に39歳で亡くなるまで、四方に兵を出して高句麗の領土を大きく広げた。死後に贈られた名に「広開土境(国土を広く開いた)」の語が含まれ、韓国では広開土大王と呼ばれる。碑文は三つの部分からなる。最初は、高句麗の始祖が天帝の子と河の神の娘の間に生まれ、国を開いたという建国の物語(高句麗の建国(伝承))と、好太王に至る系譜。次が、好太王の在位中の戦いの記録で、年ごとに、どこを攻め、いくつの城を取ったかが並ぶ。最後は、王の陵を守る墓守の家をどの村から何戸出すかという決まりで、これが碑文の3分の1ほどを占める。
問題になってきたのは、戦いの記録の初めにある一節である。百済と新羅はもともと高句麗に従う民で、貢ぎ物を納めてきた。しかるに倭が辛卯の年(391年)に来て海を渡り、百済を破り、(欠字)新羅を、以て臣民と為した——と読める。この続きで、好太王は自ら兵を率いて百済を攻め、降伏させたことが書かれる。さらに碑文は、400年に倭が新羅の国内に満ちていたので、好太王が5万の兵を送って新羅を救い、倭を追い払ったこと、404年には倭が高句麗の旧帯方郡の地に攻め込んできたのを打ち破ったことも記している。

この碑は19世紀の終わり、清がこの地域への入植を許したころに再び人々の目に留まった。1883年ごろ、満洲で情報を集めていた日本陸軍の将校が碑文の写しを日本に持ち帰り、陸軍の参謀本部が研究を進めた。日本では、問題の一節を、4世紀の末に倭が海を渡って百済と新羅を支配した証拠と読み、『日本書紀』の伝える神功皇后の「三韓征伐」や、加耶を「任那」として日本が治めたとする説の裏付けとされた。この読み方は、のちの日本の朝鮮支配を歴史の上で正当化することにもつながった。
これに対して、朝鮮の側からは、同じ一節を違う区切りで読む説が出された。「渡海破」の主語を倭ではなく高句麗と取り、倭が来たので、高句麗が海を渡って倭を破った、と読むのである。さらに1972年、在日朝鮮人の歴史家李進熙が、日本陸軍が碑の表面に石灰を塗って文字を書き換え、都合のよい拓本を作ったのではないか、という説を発表し、大きな論争になった。その後、石灰が塗られる前に取られた古い拓本が見つかり、中国や日本、韓国の研究者による調査が重ねられた結果、陸軍が意図して字を改めたという説は、いまではほぼ否定されている。石灰は、きれいな拓本を売るために地元の拓本職人が塗ったものとみられている。

それでも、読み方の論争は終わっていない。欠けた字をどう補うか、どこで文を区切るか、そして何より、この碑文がどういう性格の文書なのかが問われ続けている。碑は高句麗の王の功績を讃えるために立てられたもので、倭が強大であったと書けば書くほど、それを打ち破った好太王の偉さが引き立つ。倭が百済と新羅を「臣民とした」という表現も、その文脈のなかで割り引いて読む必要がある、という見方が強い。一方で、倭の軍勢がこの時期に朝鮮半島で実際に戦っていたこと自体は、碑文のほかの部分からも確かめられる。
好太王の跡を継いだ長寿王は、427年に都を平壌へ移し(高句麗の平壌遷都)、高句麗はさらに南へ勢力を広げた。同じころ、倭の王たちは中国の南朝に使いを送り、朝鮮半島南部の軍事の権限を認めてほしいと求めている(倭の五王)。好太王碑は、2004年に高句麗の都と古墳群の一部として世界遺産に登録された。いまは風雨から守るためにガラス張りの建物の中に収められている。