乙支文徳
概要
隋の陣に偽って降り、敵の飢えを見て戻り、七度負けて誘い込み、清川江で30万を潰した。隋の将軍に送った五言詩が残る。「戦勝の功すでに高し、足るを知って止まるを願う」。生まれも死にも記録がない。
所属
高句麗関わったできごと(1)
薩水の戦いAD612年 · 高句麗の将軍本文
乙支文徳について、確かに分かっていることはごくわずかしかない。高麗の時代に編まれた『三国史記』の列伝は、新羅の金庾信の伝に続けて彼の伝を置き、書き出しでこう述べる。乙支文徳は、その家柄や先祖のことは分からない。性格は沈着で勇猛、知略に富み、文章を作ることもできた。それだけである。生まれた年も、死んだ年も、どこで生まれどこで死んだかも、伝わっていない。彼の名が歴史に残っているのは、612年のただ一度の戦いのためである。
589年、隋が南北に分かれていた中国を統一した(隋の中国再統一)。隋にとって、東北で勢力を張り、北方の突厥とも通じかねない高句麗は、見過ごせない相手だった。598年に文帝が送った遠征軍は、長雨と疫病で大きな損害を出して退いた。後を継いだ煬帝は、大運河の完成を開いて物資を北へ運ぶ道を整え、612年、113万余りと号する大軍を自ら率いて高句麗に攻め込んだ。
隋の本隊は遼河を渡って遼東城を囲んだが、城は頑強に守られ、なかなか落ちなかった。そこで煬帝は、宇文述と于仲文らが率いる9つの軍、30万5000人を別に発し、鴨緑江を越えて高句麗の都・平壌を直接突かせた。兵には100日分の食料と武器、衣服や陣幕まで背負わせたので、重さに耐えかねた兵たちは、背負った米を陣の下に埋めて捨てた。そのため隋軍は、道の半ばで早くも食料が尽きかけていた。
このとき高句麗の嬰陽王は、乙支文徳を偽りの降伏の使者として隋の陣に送った。敵の内情を探るためである。于仲文は、高句麗の王か乙支文徳が来たら必ず捕らえよ、という煬帝の密命を受けていた。だが、ともにいた文官の劉士龍が強く止めたため、于仲文は文徳を帰してしまった。すぐに後悔して、「もう一度話し合いたいことがある」と人を送って呼び戻そうとしたが、文徳は振り返ることなく鴨緑江を渡って帰った。
文徳は隋の兵に飢えの色があるのを見て取っていた。そこで、隋軍を疲れさせるため、戦ってはわざと退くことを繰り返した。隋軍は1日に7度戦い、7度とも勝った。勢いに乗った隋軍は薩水(いまの清川江とされる)を渡り、平壌城から30里のところまで進んで、山に陣を構えた。
このとき文徳は、于仲文に一首の詩を送った。
神策は天文を究め、妙算は地理を窮む。戦いに勝ちて功すでに高し、足るを知りて止まらんことを願う。
あなたの神のごとき策は天の理を極め、巧みな計略は地の理を尽くしている。戦いに勝って功はもう十分に高い。満足して、ここで止めてはどうか。相手を持ち上げる言葉の裏に、深入りしすぎた敵へのあざけりがこめられている。五言四句のこの詩は、朝鮮半島の人が作った漢詩として現存する最も古いものの一つとされる。
文徳はさらに使者を送り、隋軍が兵を引けば、王を連れて煬帝のもとへ参上する、と偽った。平壌城は堅固で、兵は飢え疲れていた。宇文述はこれを口実に兵を返すことにした。隋軍は方陣を組んで退き始めたが、高句麗軍は四方から攻めかけて休ませなかった。隋軍が薩水を半ばまで渡ったところで、高句麗軍は後ろから襲いかかり、隋の将軍の一人が戦死して、全軍が崩れた(薩水の戦い)。隋の兵は一昼夜で450里を逃げて鴨緑江に至ったという。『隋書』によれば、9軍が遼河を渡ったとき30万5000人だった兵のうち、遼東城まで生きて戻れたのはわずか2700人だった。
煬帝は613年と614年にも遠征を繰り返したが、高句麗を屈服させることはできなかった。重い負担に苦しんだ民衆の反乱が全国に広がり、煬帝は618年に殺され、隋は滅んだ。高句麗遠征の失敗は、統一からわずか30年足らずで隋が倒れる大きな原因の一つになった。続く唐も、太宗の時代に安市城の戦いで退けられている。
乙支文徳が戦いのあとどうなったのかは、まったく記録が無い。『三国史記』を編んだ金富軾は、隋の大軍が高句麗に敗れたのは乙支文徳一人の力によるものだ、と評している。
彼の名が大きく甦ったのは、近代になってからである。1908年、独立運動家で歴史家の申采浩は伝記『乙支文徳』を書き、外敵を退けた民族の英雄として彼を称えた。いま韓国では、姜邯賛や李舜臣と並べて国を救った名将の一人に数えられ、ソウルの大通り「乙支路」や、韓国海軍の駆逐艦に彼の名がつけられている。顔も生涯も知られないまま、一つの戦いと一首の詩だけで、1400年後まで名を残した人物である。