人物

衛満

Wiman
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衛満朝鮮重要度 3

概要

燕の人。漢の高祖のとき燕王盧綰が匈奴に逃げ、衛満は千人余りで東へ。髷を結って朝鮮の服を着、準王に西の守りを任され、漢が攻めてくると偽って都に入り、王になった。中国の亡命者が朝鮮の王になったことを、朝鮮の史書は長く嫌った。

関わったできごと(2)

衛満朝鮮BC194年 · 王楽浪郡の設置BC108年 · その孫の国が滅んだ

本文

衛満は、もとは中国北東部の燕の人である。『史記』朝鮮列伝は彼を「朝鮮王満」とだけ書き、姓を記さない。衛という姓は、後の『三国志』の注に引かれた魚豢の『魏略』などに見えるものである。生年も没年も分からない。

秦が滅び、漢の高祖劉邦が天下を取ると、燕の地には高祖の幼なじみの盧綰が王として置かれた。だが高祖が功臣を次々に粛清するなかで、盧綰も疑いをかけられ、BC195年頃、北の匈奴へ亡命した。燕の支配が崩れたこのとき、満は千人余りの仲間を集めて東へ逃れた。『史記』によれば、彼は髷を結い、蛮夷の服を着て、長城の外へ出て浿水を渡り、秦の頃に空き地になっていた辺境の砦に住みついた。

当時、朝鮮半島の北西部には準という王がいた。『魏略』は準を、殷の賢者・箕子の40代あまり後の子孫だと書く。準は亡命してきた満を信用して博士の位を与え、西の国境の百里の地を任せて、守りに当たらせた。満の周りには、燕や斉から逃れてきた人びとや、土地の人びとが集まり、勢力は次第に大きくなった。

やがて満は準王に使いを送り、「漢の軍が十の道から攻めてくるので、王都に入って王を守りたい」と偽った。そうして兵を率いて都に入ると、準王を攻めて追い出し、自ら王になった。王都は王険城と呼ばれ、いまの平壌の付近にあったとする説が有力だが、遼東方面とする説もある。追われた準王は家臣とともに海を渡って南へ逃れ、韓の地で韓王を称したと伝えられる。これが衛満朝鮮の始まりで、その時期はBC194年頃とされる。

満は漢と争わなかった。漢の恵帝と呂后の時代、遼東の太守と取り決めを結び、漢の「外臣」となった。長城の外の蛮夷を押さえて辺境を荒らさせないこと、周辺の君長が漢の皇帝に会いに行くのを妨げないこと。その見返りに、漢は満に兵器や財物を与えたらしい。満はその力で周りの小国を従え、真番や臨屯を服属させて、領土は四方数千里に及んだという。中国の鉄器文化と交易の利を押さえ、漢と半島南部の諸国との間に立つ位置が、この国を強くした。

国は満の孫の右渠の代まで続いた。右渠は漢へ逃げてくる人を引き寄せて勢力を広げ、南の諸国が漢へ使いを送るのを妨げ、自らは一度も漢の皇帝に会いに行かなかった。BC109年、漢の使者との争いをきっかけに、漢の武帝は水陸から大軍を送った。王険城は1年近く持ちこたえたが、BC108年、内紛の末に右渠は家臣に殺され、城は落ちた。漢はその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四つの郡を置いた(楽浪郡の設置)。

楽浪郡の設置に関わる図版:Early 4th century Lelang Commandery
楽浪郡の設置Wikimedia Commons Asieon · CC0

衛満をめぐって後世に続いたのは、中国から来た男が朝鮮の王になったことを、どう語るかという問題である。12世紀の『三国史記』は高句麗・百済・新羅の三国から書き始め、古朝鮮を扱わなかった。13世紀の『三国遺事』は、檀君神話(伝承)の檀君朝鮮に続けて「魏満朝鮮」の項を立て、衛満の国を朝鮮の歴史の流れの中に置いた。朝鮮王朝の儒学者たちは、文明をもたらした箕子を尊び、その子孫の準王から国を奪った衛満を簒奪者として扱う傾向があった。

20世紀の植民地時代には、日本の学者が楽浪郡の遺跡の発掘を進め、朝鮮の歴史は中国の植民地支配から始まった、という見方を強調した。これに対し、解放後の韓国の学界では、衛満が髷を結い朝鮮の服を着て現れたこと、王になったあとも国号を「朝鮮」のまま変えず、土地の人びとを重用したことを挙げて、衛満は燕に住んでいた朝鮮系の人だった、とする説が唱えられた。どちらの見方も、史料が『史記』のわずかな記述しかないなかで、それぞれの時代の関心が読み込まれている面がある。

確かなことは多くない。満は、漢と半島の境目に生まれた混乱を足場に、亡命者と土地の人びとをまとめて国を作り、漢の外臣という立場を利用して勢力を広げた。その国が漢に滅ぼされたことで、半島には400年にわたって中国の郡が置かれ、文字や鉄器、政治の制度が流れ込むことになる。髷と服という小さな記述が、2000年後まで議論の的になってきたのは、それが国の始まりを誰のものとして語るかという問いに直結しているからである。

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