人物

全琫準

Jeon Bong-jun
AD1855年 – AD1895年4月24日(享年40・推定)
朝鮮重要度 4

概要

小柄で「緑豆将軍」。東学の接主。古阜で立ち、白山で檄を出し、全州を取った。政府と和して執綱所を置き、日本軍が王宮に入ると再び立ち、公州の牛金峙で負けた。捕えられて漢城で絞首。「私は農民のためにした」。

関わったできごと(2)

日清戦争1894年 · 蜂起が引き金に東学農民戦争AD1894年 · 率いた

本文

1855年、朝鮮南西部の全羅道に生まれた。生地は古阜とも泰仁とも高敞とも言われ、はっきりしない。没落した両班(士族)の家の出とされ、暮らしは貧しかった。背が低く、5尺(150センチ前後)ほどだったので、緑豆(ノクトゥ)とあだ名された。のちに人々が彼を緑豆将軍と呼ぶのはここから来ている。大人になってからは村の書堂で子どもに漢文を教える訓長をし、わずかな田を耕した。

輿に乗る全琫準
輿に乗る全琫準Wikimedia Commons Murakami Tenshin (村上天眞) · Public domain

19世紀の朝鮮の農村は苦しかった。地方の役人は税を名目に取り立てを重ね、凶作が続き、開港後は米が日本へ流れて値が上がった。そうした中で広まったのが東学である。1860年に崔済愚が開いた教えで、西学(キリスト教)に対抗し、人はそのまま天である、と説いた。崔済愚は処刑されたが、教えは2代目の崔時亨のもとで農村に根を張った。全琫準も30代で東学に入り、古阜の地域の責任者である接主になった。

古阜の郡守だった趙秉甲は、農民を動員して堰(万石洑)を造らせ、その水を使う田から新たに水税を取った。ほかにもさまざまな名目で取り立てた。全琫準の父、全彰赫は郡守に訴え出て捕らえられ、杖で打たれて死んだと伝えられる。1894年2月(陰暦1月)、全琫準は農民を率いて郡の役所を襲い、倉の米を配り、堰を壊した。この時点では地方の民乱の一つだった。

東学農民戦争に関わる図版:Jeon Bong-jun under arrest (27 February 1895)
東学農民戦争Wikimedia Commons Murakami Tenshin (村上天眞) · Public domain

政府が調べに送った役人は、東学の信徒を反乱の首謀者として片端から捕らえた。全琫準は近隣の東学の指導者たちと呼びかけを交わし、4月末、茂長で改めて兵を挙げた。白山に集まった数千の農民に向けて出した檄文は、国を助け民を安んずる(輔国安民)ことを掲げ、立ち上がるのは役人の害から民を救うためだ、と訴えた。王や国に逆らうのではない、という立場である。5月、黄土峴で全羅道の監営の軍を破り、続いて都から来た政府軍も退けた。5月31日、全羅道の中心、全州の城に入った。

慌てた朝鮮政府は清に兵を頼んだ。清が兵を出すと、日本も条約を盾に大軍を朝鮮に送った。外国の軍が国に入ることを恐れた全琫準は、政府と和約を結び、6月に全州から引き上げた。農民軍は全羅道の各郡に執綱所という事務所を置き、不正な役人の処罰や不当な税の廃止などを自分たちの手で進めた。ふつうの農民が地方の政治にかかわった例として、のちに高く評価される数か月である。

だが清も日本も兵を引かなかった。7月23日、日本軍はソウルの王宮である景福宮を占領し、まもなく清との戦争を始めた(日清戦争)。日本の後押しで朝鮮政府は改革を進めた(甲午改革)。全琫準はこれを国が奪われていく過程と見た。秋、農民軍は再び立った。今度の標的は日本軍だった。それまで武装蜂起に慎重だった崔時亨ら東学の本部も、ここで合流を決めた。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

11月から12月にかけて、農民軍は忠清道の公州をめざし、その南の牛金峙の峠で日本軍と朝鮮政府軍に挑んだ。数では農民軍がはるかに勝っていたが、火縄銃や竹槍が主の農民軍は、高所に陣取った近代的な小銃の部隊に繰り返し撃ち返され、大きな損害を出して崩れた。死者の数は分からないが、数万にのぼったとも言われる。その後も各地で農民軍は追われ、多くが殺された(東学農民戦争)。

全琫準は南へ逃れ、再起をはかったが、年の暮れ、淳昌の村に潜んでいたところを、かつての仲間の密告で捕らえられた。逃げようとして足を傷めたとされる。ソウルへ送られ、日本の領事館で取り調べを受けたあと、朝鮮の法廷で裁かれた。尋問の記録は『全琫準供草』として残っている。彼は、立ち上がったのは役人の貪欲と民の苦しみのためで、二度目は日本が王宮を侵したからだと答えた。黒幕と疑われた大院君とのつながりは認めなかった。

1895年4月24日、同志たちとともに絞首刑になった。40歳前後だった。護送のとき、輿に乗せられた全琫準を撮った写真がある。傷ついた足で座りながら、まっすぐ前を見る顔は、いまの韓国でもっともよく知られた肖像写真の一つになっている。全羅道には、鳥よ鳥よ青い鳥よ、緑豆の畑に降りるな、緑豆の花が散れば清泡(ところてん)売りが泣いて行く、という民謡が伝わる。緑豆は全琫準のことだと言われてきた。

彼と農民たちの戦いは、呼び名がそのまま評価を表してきた。かつての日本では「東学党の乱」、朝鮮王朝の側から見れば反乱だった。北朝鮮や一部の研究者は「甲午農民戦争」と呼び、いまの韓国では「東学農民革命」が公式の呼び名になっている。2004年、参加者の名誉を回復する法律ができ、2018年には処刑の地とされる場所に近いソウルの鍾路に銅像が建った。2019年からは、黄土峴で勝った5月11日が国の記念日になっている。この戦争の翌年、王妃の閔妃(明成皇后)が日本の公使らに殺され(乙未事変)、朝鮮は日本の支配へ向かって引きずられていく。

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