高麗の建国
概要
弓裔を追った将軍が開城で高麗を建て、935年に新羅の降伏を受け、936年に後百済を破った。高句麗の後継を名乗り、29人の妻で豪族をつなぎ、渤海の遺民を受け入れ、『訓要十条』を残した。「Korea」の名はこの国から。
場所
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)
関わった人(1)
王建AD877年–AD943年 · 建国本文
9世紀の末、新羅の王権は衰え、地方では城主や将軍を名乗る豪族が自立していった。その中から、南西の全羅道では甄萱が後百済を、北では弓裔が後高句麗を建て、半島は再び三つに割れた(後三国の分立)。弓裔は新羅の王族の落とし子だったとも伝えられる片目の僧で、国の名を摩震、さらに泰封と改め、自らを弥勒仏と称して、人の心を読む術を持つと言い出した。疑い深さは年とともに激しくなり、罪の無い家臣を次々に殺し、諫めた王妃と二人の息子まで殺したとされる。
王建は877年、開城(松嶽)の豪族の家に生まれた。家は海上の交易で富を築いたと伝えられ、父の王隆は896年に弓裔に従い、松嶽の城を差し出した。王建は弓裔の将として頭角を現し、とくに水軍を率いて、903年には南西の海岸の羅州を奪い、後百済の背後を押さえた。羅州の豪族の娘を妻に迎えたのもこのころで、のちにその子が2代目の王になる。武功を重ねた王建は、弓裔の国の宰相の地位にまで上った。

918年6月、洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙の4人の将が夜ひそかに王建の家を訪れ、暴君を退けて王に立ってほしいと迫った。王建がためらっていると、妻の柳氏が、義によって暴君に代わるのは昔からのことで、将軍たちの言葉を聞けば女の身でも心が奮い立つ、と言って自ら鎧を持ってきて着せたと『高麗史』は伝える。兵が宮殿に向かうと、弓裔は逃げ出し、山中で民に殺された。王建は国の名を高麗と改め、元号を天授と定めた。かつての高句麗を受け継ぐという意思を込めた名である。翌919年、都を自分の故郷の松嶽に移した。
王建はまず、各地の豪族を味方につけることに力を注いだ。豪族の娘を次々に妻に迎え、その数は后妃29人にのぼった。豪族には王の姓を与え、地方の支配を任せた。弱った新羅には礼を尽くし、贈り物を厚くして言葉をへりくだらせた。一方、北の平壌を西京として重んじ、北へ領土を広げようとした。926年に北の大国渤海が契丹に滅ぼされると(渤海の滅亡)、934年には渤海の太子の大光顕が数万の民を連れて逃れてきた。王建はこれを受け入れ、王継という姓名を与えて王族の籍に入れた。

後百済の甄萱との戦いは一進一退だった。927年には、甄萱の軍が慶州を襲って新羅の王を自害させ、救援に向かった王建の軍も公山で大敗し、王建は身代わりになった部下のおかげでようやく逃れた。だが930年の古昌の戦いで勝つと、地方の豪族はしだいに高麗へなびいていった。935年、後百済では甄萱が息子に王位を奪われて幽閉され、逃げ出して王建のもとに身を寄せた。同じ年の11月、新羅の敬順王は千年近く続いた国を高麗に差し出した。王建は敬順王を厚く迎え、娘の楽浪公主を嫁がせ、慶州を領地として与えた。翌936年、王建は甄萱を伴って後百済に攻め込み、一利川の戦いで甄萱の息子の軍を破った。半島は高麗のもとで再び一つになった。
契丹に対しては、最後まで心を許さなかった。942年、契丹が友好の使いとともに50頭のラクダを贈ってくると、王建は渤海を滅ぼした無道の国とは交わらないとして、使いを島に流し、ラクダを都の橋の下につないで飢え死にさせた。この橋はのちに万夫橋とも呼ばれた。
943年4月、病の床についた王建は、子孫への戒めとして「訓要十条」を遺したと伝えられる。仏教を敬うこと、寺はみだりに建てないこと、王位は長子が継ぐが不肖なら次の子に譲ること、唐の文化は学んでも契丹の風俗をまねるなということ、西京を重んじること、燃灯会と八関会の祭りを守ること、などである。その八条には、車嶺より南、公州江の外の地の人は、地形が背いているので用いるな、という一文がある。後百済の旧領、のちの全羅道を指すとされ、この条が後世の地域の差別の根になったとも言われる。ただし、十条全体がのちの時代に作られたものだとする説もあり、真偽は定まっていない。王建はその翌月、67歳で死に、太祖と呼ばれた。
高麗は1392年に朝鮮王朝の成立で倒れるまで、470年あまり続いた。アラビアの商人やマルコ・ポーロを通じて西方に伝わったこの国の名が、のちに英語の国名コリア(Korea)の語源になった。都の開城はいま北朝鮮にあり、王建の陵の顕陵の近くからは、1992年、冠をかぶった等身大の王建の銅像が掘り出された。もとは布の衣を着せて祀られていたとみられ、裸の体に冠だけを載せた珍しい姿をしている。開城の歴史的な建物と遺跡は、2013年に世界遺産に登録された。