人物

朱蒙

Jumong
? – BC19年(伝承)
高句麗重要度 4

概要

「弓の巧い者」。河伯の娘柳花が日光に感じて産んだ卵から。扶余王の子らに殺されかけて南へ、魚と亀の橋を渡り、卒本で高句麗を建てた。東明聖王。扶余にも同じ東明の話があり、百済も温祚の父と呼ぶ。三国が同じ始祖を分け合った。

所属

高句麗

関わったできごと(1)

高句麗の建国(伝承)BC37年(伝承) · 建国

本文

朱蒙は、朝鮮半島北部から中国東北地方にまたがって栄えた高句麗を建てたとされる始祖である。高句麗の人々自身は鄒牟と書き、のちに東明聖王とおくり名された。朱蒙とは扶余の言葉で「弓の上手な者」を意味すると『三国史記』は説明している。その生涯は、12世紀に高麗で編まれた『三国史記』や、13世紀の『三国遺事』などに伝えられているが、ほとんどが神話と伝説である。

東明聖王(朱蒙)の陵墓、平壌
東明聖王(朱蒙)の陵墓、平壌Wikimedia Commons yeowatzup · CC BY 2.0

『三国史記』によれば、物語は北方の国、扶余から始まる。扶余の王の金蛙は、太白山の南の川のほとりで一人の女に出会った。女は、川の神である河伯の娘の柳花だと名乗った。天帝の子という解慕漱と通じたため、父の怒りに触れて追い出されたのだという。王が彼女を部屋に閉じ込めておくと、日の光が彼女を照らし、身をよけても光が追ってきた。やがて彼女は身ごもり、五升ほどもある大きな卵を産んだ。

王は不吉に思って卵を犬や豚に与えたが、どちらも食べなかった。道に捨てると牛や馬が避けて通り、野に捨てると鳥が翼で覆って温めた。割ろうとしても割れず、母に返した。母が温めると、殻を破って男の子が生まれた。子は7歳で自ら弓矢を作り、射れば百発百中だった。それで朱蒙と呼ばれた。天の光と水の神の娘から生まれた卵の子、という形は、新羅の始祖の赫居世(新羅の建国(伝承))や伽耶の始祖の首露が卵から生まれたという話(金官伽耶の建国(伝承))とも通じる、朝鮮の建国神話によく見られる型である。

平壌にある東明王陵
平壌にある東明王陵Wikimedia Commons Kok Leng Yeo [ dead link ] · CC BY 2.0

金蛙王には7人の王子がいた。長男の帯素らは、朱蒙の才能をねたみ、いずれ災いになるから早く除くべきだ、と王に勧めた。王は朱蒙に馬の世話をさせた。朱蒙は良い馬を見分けて、わざと餌を減らして痩せさせ、劣った馬を太らせた。王は太った馬を自分の乗り馬にし、痩せた馬を朱蒙に与えた。王子たちが朱蒙を殺そうとしていると知った母は、遠くへ逃げるよう息子に勧めた。

朱蒙は烏伊、摩離、陝父の3人の友を連れて南へ逃れた。大きな川に行く手を阻まれ、追っ手が迫ったとき、朱蒙は川に向かって、私は天帝の子、河伯の孫である、と叫んだ。すると魚や亀が浮かび上がって橋となり、一行が渡り終えると散って、追っ手は渡れなかった。その先で、麻の衣、僧のような衣、水草の衣を着た3人の賢者に出会い、家臣にした。

朱蒙は卒本の地にたどり着き、そこに都を定めて国を建て、国の名を高句麗とし、高を姓とした。『三国史記』はこれを紀元前37年、朱蒙22歳のときとする(高句麗の建国(伝承))。近くの沸流国の王の松譲とは、弓の腕を競って打ち負かし、その国を降らせた。周りの小さな国々も次々に従えた。

扶余には、朱蒙が逃げる前に残してきた妻の礼氏と、その子の類利(琉璃)がいた。朱蒙は去り際に、七つの角のある石の上の松の木の下に隠したものを見つけた者を自分の子と認める、と言い残していた。成長した類利は、家の柱の礎石の下から折れた剣の片割れを見つけ出し、母とともに高句麗に来て父に差し出した。朱蒙が自分の持つもう半分と合わせると、ぴたりと一つの剣になった。朱蒙は類利を太子とした。同じ年、紀元前19年、朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られた。

この物語には、さらに古い原型がある。1世紀の後漢の思想家王充は『論衡』(王充『論衡』)に、北方の橐離国の王の侍女が天から降りてきた気に感じて子を産み、東明と名づけられた、という話を書き留めている。王に殺されそうになった東明は南へ逃げ、川で弓で水を打つと魚と亀が橋になって渡ることができ、扶余に着いてその王になったという。朱蒙の話と、筋はほぼ同じである。もとは扶余の建国神話だった東明の物語を、扶余から分かれ出た高句麗が、自分たちの始祖の物語として受け継いだと考えられている。

5世紀の高句麗の王、好太王の功績を刻んだ碑(好太王碑)は、その冒頭で、始祖の鄒牟王は北扶余から出た天帝の子で、母は河伯の娘であり、卵を割って世に降りた、と記している。高句麗の人々自身が、この物語を王家の出自として誇っていたことが分かる。

朱蒙を始祖と仰いだのは、高句麗だけではなかった。南の百済の王家も、自分たちは扶余から出たと称し、始祖の温祚は朱蒙の子だとする伝えを持っていた(百済の建国(伝承))。百済の王たちは東明の廟を祀った。のちに10世紀に高麗を建てた王建は、国の名を高句麗から取り、その後継を名乗った。一つの始祖の物語を、いくつもの国が分け合ってきたのである。

卒本の都は、いまの中国遼寧省桓仁のあたりと考えられ、山の上に築かれた五女山城がその跡の候補とされている。2004年、高句麗の都の遺跡と古墳群は、中国と北朝鮮でそれぞれ世界遺産に登録された。同じ頃、中国が高句麗を中国の地方政権と位置づける研究を進めたことに韓国が強く反発し、高句麗がどの国の歴史に属するかは、外交問題にまで発展した。2006年には韓国で朱蒙を主人公にしたテレビドラマが作られ、大きな人気を集めた。卵から生まれた伝説の王は、2000年を経ても、国と国の間で語られ続けている。

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