新羅の朝鮮半島統一
概要
唐と結んで百済・高句麗を倒し、その唐も退けた。半島に統一国家という形が生まれる。
場所
35.86°N 129.22°E · 大韓民国(新羅の都)
本文
4世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島は三つの国に分かれていた。北部から中国東北部にまたがる高句麗、南西部の百済、南東部の新羅である。新羅は三国の中で最も遅く国の形を整えたが、6世紀には半島の中部の漢江の流域を奪い、中国と海で直接つながる道を得た。
7世紀の半ば、新羅は百済と高句麗の両方から攻められ、追い詰められていた。新羅の王族の金春秋は、642年に高句麗へ助けを求めに行って捕らえられかけ、648年には唐へ渡って唐の太宗に会い、同盟を取りつけた。金春秋はのちに王位に就く(武烈王)。唐は、たびたびの遠征でも落とせなかった高句麗を、南北から挟み撃ちにしたかった。両者の利害が一致したのである。

660年、唐の将軍・蘇定方の大軍が海を渡り、新羅の将軍金庾信の軍と合わせて百済を攻めた。百済の将軍・階伯は、5000の決死の兵で黄山伐に立ちはだかったが、敗れて戦死した。百済の都・泗沘は落ち、王は降伏した(百済の滅亡)。百済の遺臣たちは、倭(日本)にいた王子を迎えて国の復興を図り、倭は大軍を送ったが、663年の白村江の戦いで唐と新羅の水軍に大敗した。
続いて唐と新羅は高句麗を攻めた。高句麗では、実力者の淵蓋蘇文が死んだ後、その息子たちが争い、国が割れていた。668年、平壌が落ち、高句麗は滅んだ(高句麗の滅亡)。
ところが、唐の狙いは半島全体を自分の支配下に置くことだった。唐は百済の旧領に役所を置き、平壌には安東都護府を置いて高句麗の旧領を治めさせた。新羅の王さえも、唐の役所の長という形にしようとした。新羅は、ともに戦った相手が、新たな支配者になろうとしていることに気づいた。
670年、新羅は唐との戦いに踏み切った。高句麗の遺民の復興の動きを支援し、百済の旧領にいた唐の勢力を攻めて追い出した。唐は大軍を送って反撃し、戦いは一進一退を続けた。675年、新羅は買肖城の戦いで唐の陸軍を破り、676年には伎伐浦の海戦で唐の水軍を退けた。唐は安東都護府を遼東へ移し、半島から手を引いた。この時の新羅の王が、金春秋の子の文武王である。
こうして、大同江から元山湾のあたりより南が、新羅の一つの国の下にまとまった。半島に、初めて統一された国家という形が生まれたのである。ただし、かつての高句麗の領土の大部分、とりわけ鴨緑江の北の広い地域は、新羅の手には入らなかった。そこには698年、高句麗の遺民を含む人々によって渤海の建国が興る。統一新羅と渤海が南北に並んだこの時代を、南北国時代と呼ぶこともある。
唐と戦った新羅だったが、戦いが終わると、再び唐に使者を送って朝貢し、唐の制度や文化を熱心に取り入れた。大国と戦って独立を守ったうえで、形の上では従う道を選んだのである。文武王は、死後は海の竜となって国を守りたいと遺言し、その遺骨は東の海の岩礁に葬られたと伝えられる。
統一の後、新羅は都の慶州を中心に栄えた。仏教が厚く信仰され、8世紀には仏国寺や石窟庵が築かれた(仏国寺と石窟庵)。慶州は、大きな都として繁栄を誇った。
しかし、新羅の社会には、骨品制と呼ばれる厳しい身分の仕組みがあった(新羅の骨品制)。王族の血筋かどうか、どの家柄かによって、就ける官職の上限が生まれながらに決まっていた。唐に留学して科挙に合格した崔致遠のような優れた学者でも、身分の壁に阻まれて、国の中枢には入れなかった。
能力があっても上へ行けない人々の不満は、王位をめぐる貴族の争いと重なって、9世紀には王朝を大きく揺るがした。地方では豪族が自立し、9世紀末には後百済と後高句麗が興って、半島は再び三つに割れた(後三国の分立)。935年、新羅の最後の王は、高麗の建国で国を建てた王建に国を譲った。統一から260年近くが過ぎていた。