階伯
概要
達率。5000で黄山へ。「妻子が奴隷になるより」と自分で殺した。「越王句践は5000で呉の70万を破った」。四度勝ち、官昌の首を返し、五度目に死んだ。『三国史記』に忠臣として列伝が立てられ、論山に廟がある。
所属
百済関わったできごと(1)
黄山伐の戦いAD660年7月 · 百済の将軍本文
階伯は、7世紀の百済の将軍である。12世紀に高麗の金富軾が編んだ『三国史記』に、短い伝記が残っている。そこには生まれた年も、出身も、家柄も書かれていない。分かるのは、百済の16の官位のうち上から2番目の達率の位にあったこと、そして660年、国が滅びる直前の最後の戦いで死んだことである。
7世紀の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国が争っていた。百済の義慈王は新羅を攻め、多くの城を奪って新羅を追い詰めた。窮した新羅は唐と手を結んだ。660年、唐の将軍蘇定方の率いる大軍が海を渡って百済の西の海岸に迫り、新羅の金庾信(金庾信)の率いる5万の軍が東から攻め込んだ(百済の滅亡)。
百済の宮廷では、どう守るかで議論が分かれ、対応が遅れた。義慈王は階伯に、新羅軍を食い止めるよう命じた。階伯が率いたのは、選び抜かれた決死の兵5000だった。
出陣の前、階伯は家に帰り、妻と子を自らの手で殺した。『三国史記』は彼の言葉を伝えている。一国の人で唐と新羅の大軍に当たるのだから、国の存亡は分からない。妻子が捕らえられて奴婢になり、辱めを受けるくらいなら、生きているうちに死んだほうがましだ。
階伯は軍を黄山の野に進め、三か所に陣を構えて新羅軍を待った(黄山伐の戦い)。戦いの前、兵たちにこう誓ったという。昔、越王句践は5000の兵で呉の70万の大軍を破った。今日こそ、各自が奮い立って勝ち、国の恩に報いよう。
百済の兵は死にものぐるいで戦い、新羅軍の攻撃を四度退けた。数の上で圧倒していた新羅の兵は、勢いを失った。このとき新羅の将軍たちは、自分の息子を敵陣に突入させて兵の心を奮い立たせようとした。将軍品日の子官昌は、まだ16歳だった。一人で馬を駆って百済の陣に突っ込み、捕らえられた。
階伯は兜を脱がせた官昌の若さに心を打たれた。新羅には奇特な者が多い、少年でさえこうなのだから、大人の兵はなおさらだ、と嘆き、殺さずに送り返した。官昌は父のもとに戻ると、敵の将を斬ることも旗を奪うこともできなかったのが心残りだと言い、ふたたび突入した。今度は階伯も許さず、その首をはね、馬の鞍に結んで新羅の陣に送り返した。息子の首を見た品日は、袖で血を拭い、我が子の顔はまだ生きているようだ、王のために死ぬことができた、と言ったという。新羅の兵たちは奮い立ち、太鼓を打ち鳴らして総攻撃をかけた。
五度目の戦いで百済軍は崩れ、階伯は戦死した。数日のうちに唐と新羅の軍は百済の都泗沘を囲み、義慈王は降伏した。700年近く続いたとされる百済は、こうして滅んだ。百済の遺民たちはその後も各地で抵抗し、倭国の援軍と共に戦ったが、663年の白村江の戦いで敗れた(白村江の戦い)。
『三国史記』は、新羅を中心にまとめられた歴史書である。それでも敵だった百済の将の伝記を立て、その忠節を記している。金富軾は、国に殉じた者の手本として階伯を描いたのである。
その評価は、のちの時代にも揺れ続けた。朝鮮時代の儒学者たちのあいだでは、国のために命を捨てた忠臣の鑑と称える声がある一方、罪のない妻子を殺したのは道に外れた行いだと非難する声もあった。いまも、家族を辱めから守るための悲壮な決断だったのか、自分の死に家族を巻き込んだのか、と議論される。
階伯がどこで戦ったのか、黄山の野の場所も、正確には分かっていない。いまの忠清南道論山市の連山のあたりとする説が有力である。論山には17世紀に階伯を祀る書院が建てられ、階伯の墓と伝えられる塚もあるが、本人の墓だという確かな証拠は無い。2011年には、階伯を主人公にしたテレビドラマも作られた。5000の兵で5万の大軍に挑んだ将軍の話は、韓国では誰もが知る物語になっている。