高句麗の平壌遷都
概要
満洲の山城から、平野の都へ移った。南へ向かう構えになる。半世紀後に百済の都を落とし、朝鮮半島の三国の力関係が変わる。
場所
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国
本文
高句麗は、鴨緑江の中流の山地から出た国になる。伝承では紀元前37年に朱蒙が国を開いたとされ(高句麗の建国(伝承))、早くから平地の国内城と、背後の山に築いた丸都山城を都にしていた。いまの中国吉林省の集安にあたる。山と川に囲まれ、攻められれば山城に籠もって耐える、守りやすい土地だった。
その山の国が、4世紀から5世紀にかけて大きく伸びた。313年には、漢が朝鮮半島に置いた楽浪郡を滅ぼし、平壌一帯を手に入れている。4世紀の末から即位した好太王は、北の契丹、西の後燕、南の百済と戦い、領土を大きく広げた。その功績は、子が414年に建てた石碑(好太王碑)に刻まれている。碑には、高句麗が百済を攻め、新羅を助けて倭を退けたと書かれている。

石碑を建てた子が長寿王になる。在位は79年に及び、98歳まで生きたと伝わる。その名もそこから来ている。
427年、長寿王は都を国内城から平壌へ移した。平壌は、大同江のほとりに開けた平野の町で、かつては楽浪郡の中心だった。都は平地の宮殿と、その北の大城山の山城を組にして作られた。山の国の守り方を、平野の都にも持ち込んでいる。
遷都の意味ははっきりしている。高句麗は、南を向いた。
北の中国は、当時ちょうど割れていた。華北では鮮卑の北魏が勢力を広げ、439年に華北を統一する(北魏の華北統一)。長江の南には宋があった。長寿王は、北魏と南の宋の両方に使いを送り、どちらとも事を構えなかった。西と北が当面の脅威にならないなら、力を向ける先は南になる。半島の南には、百済と新羅があった。

平壌への遷都は、南の二国にとって脅威だった。433年、それまで争っていた百済と新羅は手を結び、高句麗に備えた。百済は北魏に使いを送って高句麗を討つよう求めたが、北魏は応じなかった。
のちの歴史書『三国史記』には、この戦いの前の話が伝わっている。長寿王は僧の道琳を百済に送り込み、囲碁を好む百済の蓋鹵王に碁の相手として近づかせた。道琳は王に、城や宮殿を立派に築き直すよう勧め、大工事で国の蔵と民の力をすり減らさせた。それを見届けて高句麗が攻め込んだ、という。どこまで史実かは分からないが、高句麗が力だけでなく策を用いて南へ迫ったことを物語る話として残っている。
475年、長寿王は自ら3万の兵を率いて百済の都・漢城を攻め落とした(百済の漢城陥落)。百済の蓋鹵王は捕らえられて殺された。百済は南の熊津(いまの公州)へ都を移し、高句麗の領土は漢江の流域まで下りた。
その勢いは、新羅にも及んだ。いまの韓国中部の忠州には、5世紀に高句麗が建てた石碑が残っている。碑には高句麗の王が新羅の王に衣服を与えたことが刻まれ、高句麗が自らを兄、新羅を弟のように扱っていたことがうかがえる。半島の中部まで、高句麗の力が届いていた。

好太王碑が語る4世紀末の遠征から、半世紀あまりの流れになる。以後100年近く、高句麗が半島で最も強い国だった。
平壌はその後、高句麗の文化の中心になった。周りには、壁に四神や狩りの場面、墓の主の暮らしを鮮やかに描いた古墳が数多く残る。高句麗への仏教伝来以来の仏教も、ここで寺を増やした。6世紀の末には、大同江と普通江に囲まれた場所に、城壁で囲んだ新しい都が築かれている。

だが、南を向いた国は、やがて南から押し返される。6世紀の半ば、新羅と百済は手を組んで漢江流域を奪い、そのあと新羅が百済を裏切って独り占めにした。中国では隋の中国再統一で統一王朝が生まれ、隋は四度、唐も何度も高句麗に攻め込んだ。高句麗はそのたびに退けたが、国は疲れきった。唐と新羅が手を結び、660年に百済が滅び、668年、平壌が落ちて高句麗も滅んだ(高句麗の滅亡)。
平壌が半島の北の中心であることは、この遷都から始まっている。