できごと

真興王の巡狩碑

Stelae of King Jinheung
AD561年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民突厥フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民柔然Jin Empire北魏(拓跋魏)扶南高句麗クリカンアイヌラヴォ日本チャンパ新羅AD561年漢城(ソウル)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD561年の版図を描いています(15勢力)。

概要

新羅の王が新しく取った土地を巡って石を建てた。昌寧、北漢山、黄草嶺、磨雲嶺。漢江の流域を百済から奪い、伽耶を滅ぼし、東海岸を北へ。花郎を作り、皇龍寺を建てた。三国統一の百年前に、その形を作った王。

場所

漢城(ソウル)
37.57°N 126.98°E · 大韓民国

関わった人(1)

真興王AD526年–AD576年 · 王

本文

朝鮮半島の南東の隅にあった新羅は、6世紀の初めまで、北の高句麗、西の百済にくらべて小さく遅れた国だった。その新羅が一代で領土を何倍にも広げ、のちの三国統一の土台を作る。真興王の時代である。王は新しく手に入れた土地を巡り、その境に石の碑を建てた。いま知られているのは四つで、まとめて真興王の巡狩碑と呼ばれる。

真興王は540年、数えで7歳で即位し、はじめは母が政治を見た。先代の法興王のときに、律令が定められ、仏教が公に認められ、伽耶の一国である金官伽耶(金官伽耶の建国(伝承))も新羅に降っていた。真興王はその上に立って、外へ打って出る。551年、百済の聖王と手を組んで高句麗を攻め、朝鮮半島の真ん中を流れる漢江の流域を奪った。百済が下流の6郡を、新羅が上流の10郡を取ったとされる。ところが553年、新羅は百済が取った下流の地まで奪い、新州を置いた。かつて百済の都があった場所(百済の漢城陥落)である。

裏切られた聖王は、554年、伽耶や倭の兵とともに新羅の管山城を攻め、そこで討ち取られた。433年ごろから続いてきた百済と新羅の同盟は、これで終わり、両国は以後百年あまり争い続ける。新羅は南でも、562年に異斯夫と斯多含の軍が大伽耶を滅ぼし、洛東江の流域の伽耶の国々を残らず飲み込んだ。東では日本海の海岸を北へ進み、いまの北朝鮮の咸鏡南道まで達した。

碑はこの広がりの跡を刻む。561年の昌寧の碑は、伽耶に近い南の要地に建てられ、「辛巳年二月一日」の日付とともに、王に従った臣下たちの名と官位を並べる。新羅の中央の仕組みと、骨品の身分(新羅の骨品制)を知る手がかりになっている。北漢山の碑はいまのソウルの北の山の頂にあり、漢江流域を押さえたことを示す。568年の黄草嶺と磨雲嶺の碑は、咸鏡南道の山中に残る。王が天の恩を受けて国を継いだこと、四方に境を定めて民と土地を広く得たこと、隣国と誓って交わったことを、漢文で記す。建てた年や読み方には、いまも議論が続く部分がある。

北漢山の碑は、長く朝鮮王朝の初めの僧、無学大師にまつわる碑だと思われていた。1816年に訪れた学者の金正喜が、苔を落として字を読み、真興王の碑だと突き止めた。昌寧の碑は1914年に、磨雲嶺の碑は1929年に見つかり、黄草嶺の碑は19世紀に断片の拓本から知られるようになった。北漢山の碑は1972年に山から下ろされて博物館に移り、頂には複製が立っている。高句麗の好太王碑と並んで、三国時代の王の声を直接伝える数少ない石である。

巡狩とは、もとは中国の古典で、天子が諸侯の国を巡って政治を見ることを言う。新羅の王がこの言葉を使い、碑に「朕」と称したのは、自分を中国の皇帝にならう天下の主として示そうとしたからだと考えられている。1978年には、漢江の上流の丹陽で、高句麗から奪った城の攻略に功のあった地元の人々を賞した碑も見つかり、新羅がどのように新しい土地の人々を取り込んでいったかが分かるようになった。

真興王は国の内側も作った。若者の集団である花郎を国の制度として整え、山や川に遊び、歌と舞で互いを高め、そのなかから人材を選んだとされる。のちの名将金庾信も花郎の出である。553年には、新しい宮殿を建てようとした場所に黄色い龍が現れたとして寺に改め、十数年かけて皇龍寺を完成させた。新羅独自の年号も、開国、大昌、鴻済と立てている。576年、晩年に髪を剃って法雲と名乗り、数えで43歳で世を去った。

漢江を取ったことの意味は大きかった。新羅は黄海に面した港を手に入れ、百済や高句麗を通らずに中国の王朝へ使いを送れるようになる。百年後、新羅はこの道を通じて唐と結び、百済(百済の滅亡)と高句麗を滅ぼして、新羅の朝鮮半島統一を成し遂げた。その形は、真興王が石を建てて回った境の内に、すでに用意されていた。

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