できごと

渤海の滅亡

Fall of Balhae
AD926年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民オグズ・テュルク吐蕃五代十国遼(契丹)ウイグルツングース系の人びと契丹カルルクパーラ朝南詔南詔と大理日本アイヌパガン朝モンの諸国高麗アラカン新羅AD926年上京竜泉府
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD926年の版図を描いています(21勢力)。

概要

契丹が攻め、都は一か月で落ちた。228年の国が消える。遺民は高麗へ逃げ、王子が高麗の王族として迎えられた。

場所

上京竜泉府
44.12°N 129.17°E · 中国・黒竜江省寧安市

本文

渤海は、698年に大祚栄が満洲の東部で建てた国である(渤海の建国)。高句麗の滅亡のあと、高句麗の遺民と靺鞨の人々が唐の支配を逃れてまとまったのが始まりとされる。8世紀から9世紀にかけて、唐の制度をまねた五京十五府の仕組みを整え、都の上京竜泉府は碁盤目の街路を持つ都城だった。唐からは「海東の盛国」と呼ばれた。

日本との行き来も深かった。727年に最初の使節が出羽に着いてから、渤海の使節は30回あまり日本へ来ている。はじめは唐や新羅を牽制する軍事の同盟を探る使いだったが、やがて毛皮や人参を運び、絹や工芸品を持ち帰る交易の使いになった。日本側は朝貢として迎え、宮廷では使節と漢詩を詠み交わす宴が開かれている。

渤海の版図(830年)
渤海の版図(830年)Wikimedia Commons Original uploader was Historiographer · Public domain

この国を取り巻く情勢は、10世紀の初めに大きく変わる。907年に唐が滅び(唐の滅亡)、渤海は後ろ盾にしてきた大国を失った。同じ頃、西隣の草原では契丹の耶律阿保機が諸部族を束ね、916年に皇帝を名乗った(契丹(遼)の建国)。阿保機は中国の北辺へ進む前に、背後にある渤海を片づけておく必要があった。

925年の暮れ、阿保機は自ら軍を率いて東へ向かった。年が明けた926年の正月、渤海の西の要地である扶余府をわずか3日で落とし、そのまま都の上京を囲んだ。最後の王の大諲譔は抵抗をあきらめ、数日のうちに降伏した。史書は、王が白い服を着て羊を引き、臣下を連れて城を出たと書く。降伏の作法である。降ったあとに一度背いたが、すぐに鎮められ、王は一族とともに契丹の地へ連れ去られた。200年以上続いた国が、ひと月ほどの戦いで終わったことになる。

最大領域時代の渤海国と新羅
最大領域時代の渤海国と新羅Wikimedia Commons wikiwikiyarou · Public domain

阿保機は渤海の地に東丹国を置き、長男の耶律倍を王にした。名前のとおり「東の契丹」で、渤海の役人や制度をそのまま使う間接の支配だった。ところが阿保機はその年の夏、帰り道の扶余府で病死する。後継争いに敗れた耶律倍は弟に警戒され、東丹国の人々は928年に遼東へ移された。のちに耶律倍は海を渡って中国の後唐へ逃れている。旧渤海の地には、各地で遺民の抵抗や小さな後継の国が続いたが、いずれも長くは保たなかった。

多くの遺民は南へ向かった。918年に建ったばかりの高麗(高麗の建国)は、渤海を同族の国とみなし、逃れてくる人々を受け入れた。934年ごろには、渤海の世子とされる大光顕が数万人を連れて高麗に身を寄せ、王建から王の姓を与えられて王族の扱いを受けた。王建は契丹を「道理の無い国」として嫌い、942年に契丹が友好のしるしに駱駝50頭を贈ってきたとき、使者を島へ流し、駱駝を橋の下につないで飢え死にさせたという。渤海を滅ぼした国とは結ばない、という意思表示だった。

渤海の版図(830年)
渤海の版図(830年)Wikimedia Commons Historiographer at English Wikipedia · Public domain

なぜ渤海があっけなく落ちたのかは、史料からははっきりしない。『遼史』は、渤海の内部が割れていた隙を突いたと書く。かつては、白頭山の大噴火が国を弱らせたという説が広く語られた。白頭山が10世紀に史上でも最大級の噴火を起こしたのは確かだが、氷床の記録や年輪の分析から、その時期は946年前後とみられるようになり、滅亡より後だと分かって、この説は退けられている。

渤海を知る手がかりは、ほとんどが外の記録である。渤海自身が編んだ歴史書は残っておらず、唐・日本・契丹・高麗の記録と、都城や墓から出た遺物だけが頼りになる。そのため、この国を誰の歴史とみるかで争いがある。中国では唐の地方政権として、韓国では高句麗を継ぐ国として、それぞれ自国の歴史に位置づける。かつての都の跡は今の中国の黒竜江省にあり、国境をまたいだ論争は今も続いている。

渤海が消えたことで、北東アジアの勢力図は塗り替えられた。満洲は契丹の支配下に入り、やがて同じ土地から女真が起こって金を建てる。朝鮮半島では高麗が北へ目を向け、契丹と何度も戦うことになる。日本にとっては、最後まで使節を送ってきた隣国が消え、大陸との公の行き来はいっそう細くなった。

同じ時代のできごと

唐の滅亡AD907年ファーティマ朝の成立AD909年クリュニー修道院の創立AD910年ノルマンディー公国の成立AD911年シメオンの皇帝称号AD913年契丹(遼)の建国AD916年高麗の建国AD918年コルドバのカリフ宣言AD929年
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