人物

義湘

Uisang
AD625年 – AD702年(享年77・推定)
新羅重要度 4

概要

元暁と唐へ向かい、元暁は帰り、義湘は行った。智儼のもとで華厳。「華厳一乗法界図」、210字を図に。唐が新羅を攻めると知って帰り、王に告げた。浮石寺。海東華厳の祖。中国の娘善妙が竜になって船を守った伝説。

所属

新羅

関わったできごと(1)

元暁の悟りAD661年 · 共に唐へ向かった

本文

義湘は625年、新羅の都の慶州に生まれた。金氏の出で、貴族の家の子だったと伝えられる。若くして都の皇福寺で出家した。出家の年は、史料によって10代の後半とも20代の終わりともいわれ、はっきりしない。

華厳宗祖師絵伝
華厳宗祖師絵伝Wikimedia Commons Attributed to Enichibō Jōnin · Public domain

そのころ、仏教の新しい学問は唐で花開いていた。インドから戻った玄奘がもたらした経典の翻訳が進み、さまざまな学派が生まれていた。義湘は、8歳年上の僧元暁と連れ立って、唐へ学びに行くことを志した。650年、二人は陸路で高句麗の領内の遼東へ入ったが、国境の兵に間者と疑われて捕らえられ、数十日とどめ置かれたあと、追い返された。

661年、二人は今度は海の道から唐へ渡ろうとした。港へ向かう途中、雨の夜に洞穴で眠った元暁は、渇いて手探りで水を飲んだ。翌朝、そこが墓で、飲んだのは骸骨にたまった水だったと知り、すべては心が生み出すものだと悟って、唐へ行くのをやめた(元暁の悟り)。義湘はひとりで唐の使者の船に乗り、海を越えた。

唐に着いた義湘は、都の長安の南、終南山の至相寺に、華厳の学僧智儼を訪ねた。『華厳経』は、世界のあらゆるものが互いに限りなく関わり合い、一つの中にすべてがあり、すべての中に一つがある、と説く経典である。智儼はその教えを体系にまとめつつあった人で、のちに中国の華厳宗の第二祖とされる。義湘はそこで8年ほど学んだ。同じ門下には、のちに華厳の教えを大成する法蔵がいた。義湘より18歳若い弟弟子である。

668年、義湘は学んだことを一つの図にまとめた。「華厳一乗法界図」である。7字の句を30並べた210字の詩を、四角い迷路のような一筆の線に沿って書き連ねたもので、線は中心の「法」の字から始まり、折れ曲がりながら全体を巡って、中心の「仏」の字の隣で終わる。始めと終わりが同じところにあることそのものが、どこから歩み始めても悟りはそこにある、という華厳の考えを表しているとされる。この年、師の智儼が亡くなった。

義湘が新羅へ帰ったのは、670年ごろのことである。そのころ、高句麗を滅ぼしたあとの唐と新羅は、半島の支配をめぐって対立を深めていた(高句麗の滅亡)。『三国遺事』によれば、唐に捕らえられていた新羅の金欽純らから、唐が新羅を攻めようとしていると聞かされ、それを知らせるために急いで帰国したという。帰国の理由については、別の伝えもある。

帰国した義湘は、文武王の命によって、676年、新羅の北の山中に浮石寺を開いた。この年は、新羅が唐の軍を半島から退けた年でもある(新羅の朝鮮半島統一)。浮石寺は、新羅における華厳の教えの中心となり、義湘は海東、つまり朝鮮の華厳の祖と仰がれるようになった。弟子は数多く、その中から「十大弟子」と呼ばれる人々が出た。彼らやその流れをくむ僧たちによって、各地に華厳の寺が開かれていった。

義湘は質素な暮らしを守った人として伝えられる。文武王が田畑と奴婢を寄進しようとしたとき、私の教えでは身分の上下はない、田も奴婢も要らない、と断ったという話が残る。また『三国史記』は、晩年の文武王が都の城壁を新たに築こうとしたとき、義湘が、王の政が正しければ草の野に線を引いただけでも城になる、と書き送り、王が工事をやめたことを記している。義湘はまた、観音への深い信仰でも知られた。東の海辺の洛山で、洞窟に籠もって観音に祈り、その姿を拝んだという伝説があり、いまの洛山寺の始まりとされる。

702年、義湘は78歳で世を去った(数え年)。その名を後世に伝えたものの一つが、唐に残った法蔵との交わりである。法蔵は、師の教えを書きまとめた自分の著作を新羅の義湘に送り、意見を乞う手紙を添えた。兄弟子への敬意にあふれたこの手紙は、写しが伝わっていて、二人の友情を今に伝えている。

義湘の物語は、海を越えて日本にも伝わった。10世紀の終わりに中国で編まれた『宋高僧伝』には、次のような話がある。唐の港町で義湘が身を寄せた家の娘、善妙は、義湘を慕ったが、修行の身の義湘は応えなかった。善妙は、それならば一生あなたを支えようと誓い、義湘が帰国の船に乗ると、海に身を投げて竜となり、船を守って新羅まで送り届けた。のちに義湘が寺を開こうとした山に、別の宗派の僧たちが居座って邪魔をすると、竜は大きな岩を宙に浮かべて彼らを追い払った。それが「浮石」の名の由来だという。

この話は鎌倉時代の日本で、京都の高山寺の僧明恵の心をとらえた。明恵のもとで、義湘と元暁の生涯を描いた絵巻が作られ、いまは国宝となっている。1223年、明恵は、承久の乱で夫を失った女性たちのために尼寺を開き、善妙寺と名づけた。高山寺には、竜神となった善妙の木像も伝わっている。

浮石寺の本堂の無量寿殿は、1376年に修理された記録が残る木造の建物で、朝鮮半島に現存する最も古い木造建築の一つである。その脇には、善妙が浮かべたと伝えられる大きな岩が、いまもある。義湘の210字の法界図は、韓国の寺でいまも唱えられている。

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