できごと

後三国の分立

Later Three Kingdoms
AD892年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ツングース系の人びとマレー系の人びとヒンドゥーの諸国渤海ラージプートの諸氏族と小国プラティーハーラ朝パーラ朝南詔南詔と大理日本真臘クメール帝国アイヌヒンドゥーと仏教の小国群新羅ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパドヴァーラヴァティーAD892年光州
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD892年の版図を描いています(23勢力)。

概要

新羅の将軍甄萱が武珍州(光州)で自立して900年に全州で後百済を、僧弓裔が901年に後高句麗を名乗った。新羅は慶州の周りだけに。弓裔は自分を弥勒と呼んで妻子を殺し、部下の王建に追われた。甄萱は息子に幽閉されて王建に降り、自分の国を攻める側に立った。

場所

光州
35.16°N 126.85°E · 韓国

関わった人(2)

甄萱AD867年–AD936年 · 後百済弓裔?–AD918年 · 後高句麗

本文

7世紀に朝鮮半島を統一した新羅は(新羅の朝鮮半島統一)、200年余り、都の慶州を中心に栄えた。しかし9世紀に入ると、王位をめぐる王族どうしの争いが続き、都の政治は乱れた。新羅の社会は、生まれた家の格で就ける官職が決まる骨品制に縛られていた(新羅の骨品制)。都の真骨の貴族が権力を独占し、地方の有力者や下級の家柄の者には出世の道が無かった。地方では「城主」や「将軍」を名乗る豪族が、自分の城と兵を持ち、都の命令に従わなくなっていった。

9世紀の末、女王の真聖王の時代に、国の財政が行き詰まった。都が地方に税の取り立てを厳しく命じると、889年、各地で農民が立ち上がり、反乱が半島中に広がった。盗賊の群れが村を荒らし、豪族たちは身を守るために兵を集めた。この混乱の中から、新羅に代わって国を名乗る者が二人現れる。

後三国時代の勢力図
後三国時代の勢力図Wikimedia Commons Evawen · CC BY 3.0

一人は甄萱である。いまの慶尚北道の農民の家に生まれ、軍に入って半島の西南の海岸の守りにつき、勇敢さで頭角を現した。892年、反乱の広がりに乗じて兵を挙げ、西南部の武珍州(いまの光州)を拠点に自立した。900年には完山州(いまの全州)に都を移し、かつて新羅に滅ぼされた百済の恨みを晴らすと唱えて、国号を百済とした。後の歴史家は、これを古代の百済と区別して後百済と呼ぶ。

もう一人が弓裔である。新羅の王の子として生まれながら、不吉な日に生まれたとして殺されかけ、乳母に救われたが、そのとき片目を失った、と伝えられる。この出自の話がどこまで事実かは分からない。若くして寺に入って僧となったが、乱世になると寺を出て、北部の盗賊の頭目の配下に加わり、やがて頭目をしのいで自立した。901年、彼はかつての高句麗の地で、高句麗の仇を討つと唱えて国を建てた。これを後高句麗と呼ぶ。弓裔はのちに国号を摩震、さらに泰封と改め、都を鉄原に置いた。

光州広域市庁
光州広域市庁Wikimedia Commons Neoalpha · CC0

こうして、慶州のまわりにまで縮んだ新羅、西南の後百済、北の後高句麗が並び立った。7世紀の三国時代になぞらえて、これを後三国時代と呼ぶ。

弓裔の国は急速に広がったが、その政治はしだいに常軌を逸していった。弓裔は自分を、未来に現れて人々を救う弥勒仏だと名乗り、頭に金の冠をかぶり、二人の息子を菩薩と呼ばせた。人の心を見通す力があると称して、臣下を疑い、次々に処刑した。それをいさめた王妃の康氏を、不義を働いたと決めつけて殺し、二人の息子まで殺したと伝えられる。

国立光州博物館
国立光州博物館Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

918年、弓裔の重臣たちは、人望のあった将軍王建を王に推した。王建は開城の豪族の家の出で、海上の交易で力をつけた一族に生まれ、弓裔のもとで水軍を率いて後百済の背後を突き、手柄を重ねていた。王建が立つと、弓裔は宮殿を逃げ出し、山中をさまよったあげく、民に殺されたという。王建は国号を高麗と改め、本拠地の開城に都を移した(高麗の建国)。

その後の争いは、王建の高麗と甄萱の後百済の対決になった。927年、甄萱は新羅の都の慶州を襲い、宴を開いていた王を自害させ、別の王族を王に立てた。救援に駆けつけた王建は大敗し、身代わりになった部将のおかげでようやく命拾いをした。しかし930年の戦いで高麗が大勝すると、地方の豪族たちは次々に王建の側についた。王建は降った豪族を手厚くもてなし、その娘を妃に迎えて味方を増やしていった。

後百済の内側から崩れたのは、甄萱の家だった。甄萱が四男に位を譲ろうとしたことに怒った長男の神剣が、935年、兄弟とともに父を金山寺に閉じ込め、王位を奪ったのである。甄萱は寺を抜け出し、敵であった王建のもとへ逃れた。王建は彼を「尚父(父に次ぐ人)」と呼んで迎えた。同じ年、力を失った新羅の最後の王も、高麗に国を譲って降った。

936年、王建は後百済への最後の攻撃に出た。その軍には、甄萱の姿があった。かつての後百済の王が、自分の建てた国を攻める側に立ったのである。後百済の軍は戦わずして崩れ、神剣は降伏した。甄萱は間もなく、病を得て寺で亡くなったと伝えられる。こうして高麗が半島を再び一つにまとめた。新羅の骨品制は崩れ、地方の豪族たちが新しい国の支配層になった。高麗は、やがて科挙を取り入れて王の下に官僚を集める国へと変わっていく(高麗の科挙)。

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