できごと

黄山伐の戦い

Battle of Hwangsanbeol
AD660年7月
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ヒンドゥーの諸王国突厥吐蕃カナウジガウダ王国(シャシャーンカ)高句麗タイ系の諸王国アイヌKamarupa真臘ドヴァーラヴァティー扶南日本新羅チャンパAD660年7月論山(黄山伐)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD660年7月の版図を描いています(19勢力)。

概要

唐の13万が海から、新羅の5万が陸から。百済の階伯は5000で黄山の野に出る前に妻子を殺した。四度勝って五度目に負けた。16歳の花郎官昌が一人で突っ込んで殺され、その首を見て新羅の兵が動いた。10日後、泗沘が落ちた。

場所

論山(黄山伐)
36.19°N 127.10°E · 韓国・忠清南道

関わった人(2)

金庾信AD595年–AD673年 · 新羅の将軍階伯?–AD660年 · 百済の将軍

本文

660年7月、朝鮮半島の西南、いまの忠清南道論山の黄山の野で、百済の将軍階伯の率いる五千の兵が、新羅の大軍を迎え撃った。百済が、七百年近い歴史の最後に戦った大きな戦いである。

7世紀の半ば、朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三つの国が激しく争っていた。百済は高句麗と結び、新羅の城を次々に奪っていた。追い詰められた新羅は、唐と手を結んだ。新羅の王族金春秋は自ら唐に渡って同盟を取りつけ、のちに王(武烈王)となる。唐にとっても、たびたび遠征に失敗した高句麗を倒すには、まず南の百済を除いて、挟み撃ちの足場を作る必要があった。

金庾信の肖像(朝鮮時代の肖像画集より)
金庾信Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

660年、唐の将軍蘇定方の率いる13万の大軍が、山東半島から海を渡って、百済の都・泗沘(いまの扶余)を流れる錦江の河口を目指した。陸からは、新羅の将軍金庾信が5万の兵を率いて西へ進んだ。両軍は7月10日に泗沘の近くで落ち合うことになっていた。百済の朝廷では、どこで敵を防ぐかをめぐって議論がまとまらず、そのあいだに両軍は国境を越えた。

新羅軍の前に立ちふさがったのが、階伯である。12世紀に編まれた朝鮮の史書『三国史記』によれば、階伯は出陣の前に、一国の力で唐と新羅の大軍に当たるのだから、生き延びられるかは分からない、妻子が捕らえられて奴婢になるよりは、生きて辱めを受ける前に死んだ方がよい、と言って、自分の手で妻子を殺した。そして兵たちに、昔、越王の句践は五千の兵で呉の七十万を破った、今日はそれぞれが奮い立って国の恩に報いよ、と励ましたという。

行政区域図
行政区域図Wikimedia Commons 장길산 · Public domain

7月9日、百済軍は黄山の野の要地に三つの陣を構えた。新羅軍は兵を三つに分けて攻めかかったが、決死の百済軍に四度攻めて四度とも退けられた。兵の士気は落ち、将軍たちは焦った。

ここで新羅の将軍たちは、自分の息子を差し出した。将軍金欽春の子の盤屈が敵陣に突入して戦死した。続いて将軍品日は、16歳の息子官昌を呼んだ。官昌は花郎と呼ばれる貴族の青年の集団の一員だった。官昌は一騎で百済の陣に突っ込み、捕らえられた。階伯は兜を脱がせ、その若さに心を打たれて、殺さずに送り返した。新羅には勇士が多い、少年でさえこうなのだから、大人の兵はなおさらだ、と嘆いたと伝えられる。だが官昌は、陣に戻ると井戸の水を手ですくって飲み、再び敵陣へ駆け込んだ。階伯は今度は彼の首を斬り、馬の鞍に結んで送り返した。品日は息子の首を袖でぬぐい、わが子の顔は生きているようだ、国のために死んだのだから悔いはない、と言った。これを見た新羅の兵は奮い立ち、一斉に攻めかかって百済軍を打ち破った。階伯は戦死した。

黄山の戦いのために、新羅軍は唐軍との約束の日に一日遅れた。蘇定方は遅れを咎め、新羅の将校を斬ろうとした。金庾信は、黄山での苦戦を見もせずに遅れを罪とするなら、先に唐と決戦する、と言って斧を手に陣門に立ちはだかり、蘇定方は引き下がったという。同盟の内側に、すでに緊張がはらまれていた。

唐と新羅の軍は泗沘を囲み、義慈王は北の熊津へ逃れたが、7月18日に降伏した(百済の滅亡)。王は唐へ連れ去られ、その地で亡くなった。だが百済の遺民たちはすぐに各地で立ち上がって国の再興を図り、倭に助けを求めた。倭の大軍は663年に白村江の戦いで唐と新羅の水軍に大敗し、多くの百済の人びとが倭へ渡った。高句麗も668年に滅び(高句麗の滅亡)、その後新羅は唐の軍を半島から追い出して新羅の朝鮮半島統一を成し遂げる。

階伯の物語は、後の朝鮮で忠義の手本として語り継がれ、論山には彼の墓と伝えられる墓と、彼をまつる祠がある。妻子を自ら殺した話を、国に殉じた忠義と読むか、追い詰められた人の悲劇と読むかは、現代の韓国では議論の的にもなる。官昌の話もまた、少年を死地に送り出すことで兵を奮い立たせた新羅の戦い方を伝えている。これらの場面の多くは、戦いから五百年近く後に編まれた史書による。

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